溢れ出す自我 その2

 自我とは、というか僕が勝手に定義する自我(=エゴ)とは、精神以前の状態で、それ自体として制御不能な「衝動」そのものを指す。

 ウワッ、自分で打っててワケわかんない。

 こんなご時世、例として使うにはあまり穏当でなかろうが、核反応を外界から遮断する原子炉をイメージ頂く。いうなれば自我という極めて危険な存在を、精神という炉がしっかり封じ込めている状態。炉内を暴れ回る分には社会生活に支障なく、むしろ核分裂が活発に繰り返されるのは、日常にとって極めて有用。それがちょっと事故ったりして炉の一部が破損し、やたら元気で目的性のない核物質が外部に漏れたりすると、突じょ制御不能に陥ってしまう。
 それでもまだ(安全対策としての)格納容器内に収まっていれば、周囲に気づかれないまま過ごせよう。好転しないままメルトスルーの段階を迎えれば、「キ~!!」とやにわ白目を剝いて絶叫、二度三度繰り返せば、教室や職場に居にくい環境を招いてしまう。
 もちろんこれには前兆があって、自分を中傷する(自分にしか聞こえない)会話が聞こえたり、他人には見えないコワいお兄さんたちに囲まれ、大声で謝罪を強制されたりといったパターンが生じていたりする。
 「ねぇ、ちょっと聞いて」なんて同僚や警察に相談しても、聞こえない・見えないものを訴えるキモチ悪い人と遠ざけられ、孤立感は増すばかり。他人が感じない存在をナマで体感しているなんて、もしかしたら素晴らしい可能性を有した人かもしれないのに。

 社会に適合できなくなれば即「異常」と診断され、「統合失調症」と名づけられた心の病として、隔離なり入院なりを、直接・間接的に強要されるハメとなる。人間社会は生産活動を前提に成立しているから、無産者に価値はなく、無価値=「異常」という烙印をほどなく押され、専門家以外のコミュニケーションの機会を奪われる。すると俺って私って、生きていても価値のない人間なんだと自らを責め(実はそう仕向けるのも自我の成せるワザ)、「回復」は遠のくばかり。
 でも、ちょっと考えてみれば増大する一方の矛盾に満ち満ちた、あらゆる対象が分裂した現代(とくにここ数10年)に、平気な顔して生活している鈍くて軽い僕らの精神構造こそ、「異常」そのものと言えなくもない。

 マトモだったら、オカシクならない方がマトモじゃない。 ウワッ、ますますもってワケわかんない。 そのうち「アンタ大丈夫?」と、心配される側になるのかもしれない。

 閑話休題。

 バド・パウエル(Bud Powell 1924-1966)を聴いた。久しぶりに通しで、数枚のアルバムを聴いた。そうしたら自我(=エゴ)という厄介な命題も、難なく理解できてしまった(気がする)。 やっぱ本物は、コワくてスゴい。
 でもその前に、ジョン・コルトレーン(John Coltrane 1926-1967)のプレイを、これも数年ぶりに聴いてみて、「何でこの人、あんな風になってっちゃったんだろう?」の方が出発点なので、モノの順序に従い考えていく。

 ジャズを聴き始めた10代の終わり、すぐに好きになったのは、コルトレーンがソプラノ・サックスを吹く「マイ・フェイヴァリット・シングス(1960)」だった。
 映画「サウンド・オブ・ミュージック(1965)」でジュリー・アンドリュースが歌い、一躍有名になった曲。前奏のマッコイ・タイナーのピアノがスーッとなかに入ってきて、続くエルヴィン・ジョーンズのジャ~ンのキメも恰好よくて、今思えばジャズのノリというより、ポピュラーや映画音楽の延長みたいなものとして、取っ付きやすかったんだろうと思う。決して短くない曲なんだけれど。 http://www.youtube.com/watch?v=I9qzO-oS_Js
 さすがにこの歳で、「マイ・フェイヴァリット・シングス」を聴きたいとは思わなくなった。不遜に申せば、音楽が浅いのだ。もっと言うとコルトレーンの音楽自体に、深淵といえるほどの底知れなさが不足しているのだ(逆にパウエルならすぐにピンとくる、そうした類のもの)。
 ところがこの人、図体やら人生やらはやたらとヘビーで、まじめを絵に描いたような人だった(そうな)。その真面目さすらも、重みというより鈍い方に作用する要素だった気がしてならない。同時代の60年代なら、真摯な生き方を音楽とイコールに受け止められたかもしれないが。

 初期の傑作とされる「ブルートレイン(1957)」も、昔だったら大好きでよく聴いたアルバムなのに。とくにカーティス・フラーやリー・モーガンのカッチョええ前奏をうけて、おもむろに吹き始める「パラーララ・ラ・ラー・・・パラーララ・ラ・ラー」、痺れたんスけどね。今だと、「ウワッ、くさ」となってしまう。
 じゃ、聴かなきゃいいじゃん。嫌いなんだろう? 自分で自分に問い詰めれば、そうは言うけどマイルス・デイビスがリーダーの「カインド・オブ・ブルー(1959)」なんて、すごくいい味出てるんですよぉと弁護を始めるもう一人の自分がいて、これも最近読んだ川上弘美著「真鶴」の気分(面白い小説。神奈川の真鶴を知る人に特におすすめ)。
 慣れるとおいしいクサヤの干物。あの匂い、クサいんだけど噛めば旨みが口中に広がるあの感覚、コルトレーンなんだよなぁ。聖人という名の、しかし美徳とも断じにくい彼の音楽について次回、ちょっと妄想してみたい。

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