私だけの十字架 その1

娘は仕事から帰宅するとすかさずスマホにイヤホンを装着し、音楽を聴いたりユーチューバーの動画など見たりしている。 22歳にもなってそんなヒマがあるなら、付合っているオトコだっているのだし、孫の一人や二人生んでもバチは当たらないと思うのだが、深入りするとかなり本人のプライバシーに抵触するため、ここでは控える。

気になるのは奴のイヤホンで、後述する編集用としてなら僕も使ってはいるが、観賞用にこれを用いるなど、言語道断の行為である(と、あくまで個人の見解として申し上げる)。

なにしろイヤホンは長く使うほど、耳くそが増殖していく不快なイメージがある。 通気孔をふさがれ逃げ場を失った汗が、ネチネチと粘度を上げ、スライム状に粘膜の奥深く付着していく様など、想像するだにおぞましい。 事実はきっと違うのだろうが。

致命的に音が悪い。 どう工夫したって、良くなるわけがない。
イヤホンの原理はスピーカーと一緒で、音を電気に変えて、その電気を磁石の近くのコイルに流すと、元の音と同じように振動するという特性に基づいたものである。
音とは、物が動いたときに発生する空気振動のこと。 その運動は周りの空気に変化を生じさせ、四方八方へと伝えられる。

スピーカーの場合、音が空気中を伝わっていく際、距離が遠くなるとエネルギーが消費され小さくなって行くのに対し、イヤホンはドライバーユニットが耳と密着しているため、小さな振動までしっかり伝わる特性を持っている。 だからスピーカーでは聞き取りにくいピアニッシモを確認したい時など、モニターとして使用するのに適している。 反面、構造上の理由から振動板があまりに小さくチンケであるため、音質面で圧倒的に劣る。 一定の容積が無いと、“音”であっても“音楽”にはなりえないのが道理だ。

a-420中学生になって間もなく、初めてのステレオ装置を親に買ってもらった。 父に連れられ神保町のオーディオ・イベント会場で、レコード・プレイヤー、アンプ、チューナー、スピーカーと、カセット・デッキまでを揃えた。 カセットは後でもいいんじゃないかと渋られたが、僕の本命はカセット・テープに音楽をコピーする事だったから、ごり押しで手に入れた。 どうやら父にも予算があったようで(そりゃそうだ)、必然的に全体のグレードは下がり、音質はかなり犠牲になったはずだ。 それでも比較検討するものがない当時の僕にとって、人生初のオーディオ・セットは、まさに宝ものだった。

0883929304653_p0_v4_s550x406モノが届いたその日から、名もなき格安ブランドの60分テープ3本セット(それだって当時は1,000円くらいした)を近所の長崎屋で仕入れて、レコードからダビングしたりFM放送からエアチェックしたりを繰り返した。

渋谷陽一「ヤング・ジョッキー」で録ったジューダス・プリースト「切り裂きジャック(Judas Priest – The Ripper)」やチーチ&チョン「ミスター・ロックンロール(Cheech & Chong – Earache My Eye)」なんて聴いていると、音楽の最先端に自分がいるようで気分が良い。 ちなみに双方、YouTubeで今も視聴できる。 イケないハッパを吸う描写に始まる後者の壊れっぷりなど、今もってとてもカッコいいと思う。

それから40年が経過して、身体の方は中年から老境の域に差し掛かってはいるものの、心は少年っていうか、まるで進歩なく同じことを繰り返している。 進歩がないと言えば立つ瀬がないが、進歩の必要を感じないとでもほざいてみれば、チと粋がり過ぎか。

紆余曲折はあるにしろ、今でもFMから音楽を録って編集し、観賞することを日課とする毎日。 昔も今も、そこに本質的な違いはない。 チューナーがパソコンに変わり、かつてのカセットがハードディスクに交替し、やたら編集が便利になったことと記録容量が比較にならないほど大きくなっているのをもってして、時代の隔たりというだけだ。

高校生になると、何しろカセットというのは片面に最長で60分しか入らず、C-120というこのタイプはテープが薄く切れやすいデメリットもあり、1時間30分のマーラーやブルックナーの大曲を切れ目なく保存するため、オープンリール・デッキの購入を決意する。 SONY TC-7960という製品で、1970年の半ばで、238,000円もした。

とても高校生がまともに買えるブツではない(アルバイトはかたく禁じられていたし)。
私学だったのを悪用し、何かと寄付金が入り様だとかこじつけて、あるいは定期代を水増ししてちょろまかすなど、どこぞの市会議員の先駆けのようなせこい行為に手を染め、ようやく購入にこぎつけた。

tc-7960この製品はロート・バイラテラルヘッド方式といって、テープの末端に指定の銀テープを貼っておくと、本来巻き終わるところでこれを検知し、録音ヘッドと再生ヘッドを180度回転させ、テープも逆回りして長時間録音を可能にしてくれるオートリバース方式のスグレモノである(わかるかなぁ、わかんねぇだろうな)。 ガッチャン!とメカニカルな音を立て、リールが逆回りを始める瞬間が快感である。 各社が工夫を凝らし、オリジナルなものを追求していた時代だった。

日本の技術力が絶頂期にあった頃にあっても、これは傑作の一つと思う。 音もめちゃくちゃ良かった。 オープンリールに入れた音というのは、元のソースよりあきらかに迫力が増す。 19cm/sという、カセットの4倍のスピードがもたらす効果だろう。

本気でオーディオに打ち込むなら、今もってオープンリール・デッキによる録音再生、しかも2トラ38(2トラック38cm/s)に勝るものはない。 特性から言ってSACDやハイレゾの方がはるかに良いという輩もあるが、では何故、明らかに特性に劣る中古のフェラーリに憑りつかれる人間が、今も後を絶たないのか。 彼らは決してブランド志向から人生を賭けるのでなく、フェラーリという“本物”に出会ってしまったため、日常とのあまりの落差に、生きる意味を問い直さなくてはならなくなってしまった“幸福”な少数者かもしれない。 それは数値に置き換えたくらいで優劣を決することのできる、ヤワな世界ではない。

低域から高域の周波数まで数字的に網羅し、普通では聞こえない音が鳴っていることと、生々しいということとは、決定的に違う。 奏者がそこにいて、空気の振動がもろに伝わってくるような生々しさとは、逆説的だが、非現実な空間となる。 柄谷行人いうところの、狂人の見る夢のようなものだ。 夢でありながらその渦中にある当事者にとってどこまでも生々しく、一方、夢であるがゆえに一切の選択の余地なく迫ってくる、その恐怖と切実感。

しかしフェラーリ同様、オープンリール・デッキは場所も取れば手間もかかり、つぎ込むゼニも半端ない。 それを支える情熱は、今の僕にはない。 むしろ限られた条件であっても、様々な音楽に触れていられる毎日の方に喜びを感じる。 これって、プチブル?

前にも書い34055415-1HozqzslBqroxwxa-s-たが、Radikoolというフリーソフトがあって、地元のFM局や全国のコミュニティFMなどが留守録できる。 番組まるごと録った後、mp3DirectCut(傑作!)というこれもフリーソフトを使って、必要な個所だけ編集すれば、オリジナルのライブラリーが日ごと増えていく。 これが楽しい。 なにより、金がかからない。 こんな趣味は滅多にないぞ!

長くなったので次回に続く。

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