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よこはま たそがれ ホテルの小部屋

伊勢佐木町のホテルに着いたのは、15時を少し回ったころ。 さして温度は高くないのに、JR関内駅から10分ほど歩いただけで、拭う先から不快な汗が流れてやまない。 夏の名残なのか、高い湿度にムシムシとしている。

伊勢佐木モールを進む道すがら、耳に届く会話の大半は中国語だ。 今どき珍しいほど、歩きたばこのオジサンと何人もすれ違う。 「だぁから、バイアグラあれだけ渡しといたのにさぁ」「そっちまでやっちゃうと、必ず違うとこまで要求されるんで、どうするかですよ」などと、歩き携帯の人達の遠慮ない声が、高い音量で商店街にこだましている。 パチンコ屋の前でしょげているおっさんにちょっかいをかけ、「うるせぇ!」と怒鳴られるとキャッキャッ笑いながら立ち去る、ちょっと化粧濃いめのご婦人二人組。 何か、アジア。 何か、昭和。

17時前にランドマーク・タワーに着けばいいので、1時間ほどホテルでヒマを潰さなければならない。 412号室のベッドに腰を降ろし、テレビのリモコンボタンを押す。 TVK(テレビ神奈川)で、「助け人走る」の再放送をやっていた。 時代劇「必殺」シリーズの3作目に当たる。 本放送は土曜日の22時、小学4年生の僕は、常に就寝しているはずの親の目を気にしながら、毎回欠かさず観ていた。 この時代は自主規制が緩く、かなりきわどい(具体的には男子の股間を熱くする)番組が多い時間帯だったのだ。 数年後、同じ時間帯に放送された「テレビ三面記事 ウィークエンダー」なんて、ホントすごかったもんなぁ。

e11d4af1a63b9d293e859307ec982d5640年以上の時を経て再びまみえたドラマは、陰々滅滅たるものであった。 悪い殿さまに仕え、自分の女房を寝取られた家臣が、彼女を救いだし逃避行を試みる。 いざ出奔の矢先、女房のつわりの兆候を目にしてうろたえれば、外で待ち受けた殿さまの家臣に女房を連れ去られ、追いついた屋敷で多勢に切り殺されてしまう。 旦那の非業の死を眼前にした女房、隙を見て殿様の刀を抜き、自刃する。 もちろん悪い人達は、素浪人・中山文十郎(田村高廣)と辻平内(中谷一郎)に成敗され終わるのだが、かりそめの墓前を前にした“しの”の台詞、「この二人は生き続けることの方がつらかったのよ」などと、救いようのない後味ばかりが残る。 そういえば「ウルトラセブン」のどこか無機質でひんやりとしたテイストの残滓を、同じTBSだからなのか、ちょっとあるよう感じた。

実は「助け人走る」で僕が記憶しているのは、本編ではなく最後に流れる主題歌の方だ。 森本太郎とスーパースター「望郷の旅」。  すでにバンド名からしてあまりの格好よさにしびれてしまうが、森本太郎といえばザ・タイガースのギタリスト。 名曲「花の首飾り」を唄ったご仁だ。 YouTubeを開いたら、「望郷の旅」がちゃんと公開されていた。 やっぱり好きな人、ちゃんといるんだな。
7月に逝去された平尾昌晃の、これは最高傑作かもしれない。 それにも増して、安井かずみの詞が秀逸。 「すすきの原は銀の色 風が身にしみる」なんて、まず今の時代に再現不能な“うたことば”だろう。

16時になって、チャンDKkd5-IVAAIFAlnネルをひと回り。 ドラマの再放送を除けば、緑のたぬき・小池百合子氏をめぐる話題で花盛り。 今のところ大手メディアは、百合子ちゃんの野望に連れ添う気配濃厚である。 こいつら、安倍憎しに凝り固まるあまり、視界不良に陥っちゃってんじゃないの。 連合という“しがらみ”の代表みたいな組織を受け入れる段階で、希望の党の綱領は崩壊している。 っていうか百合子ちゃんにたかってくる人達って、自分本位があまりに露骨過ぎて気持ち悪い。 中山恭子さんは旦那のためでなく、貴女の立派な信念に従って再考されてはいかがでしょう。 「棄望の党(希亡の党?)」は、貴女にまるで似合いませんよ。

わけて民進党を実質解党する張本人の前原くん(「後ろから前原」とは、文春に載った北朝鮮おねぇさんとの2ショットから命名されたそうで)の、あんまりにもあんまりな答弁が情けなさの極みである。 「政権交代の実現のために、名を捨てて実を取る」ってどういう意味? 選挙を戦う前から「参りました」って言ってんのと一緒じゃん。
「おまえ、男だろ」などと、今どき差別発言と受け取られかねないが、敢えてキミに投げつけたい言葉だ。 未来ある乗客に間違った情報を流し続け見殺しにし、自らは一命を取り留めたセウォル号の船長の姿を彷彿とさせる。 前原くんの場合、沈みゆく船に最後まで留まったとして命まで取られる事はないし、本当に志があるのであれば(ないけど)、その潔く気高い態度は必ずや後に評価され、党再生の可能性だってゼロではなかったはず。 こいつ、ほんとクズ。 こういう奴にだけはならぬよう、自らを戒めようと思った次第。

宴が終わったのが午後7時過ぎ。 ホテルに戻る車中、されば「伊勢佐木あたりに灯(あかり)がともる」のだ。
これは、青江三奈「伊勢佐木町ブルース」の一節。 作詞は川内康範、「行けレインボーマン」「ヤマトタケシの歌」「あいつの名前はレインボーマン」「死ね死ね団のテーマ」(ぜんぶ「愛の戦士レインボーマン」の挿入歌だが)という空前絶後の名作を世に問うた、大先生の手になる。
「ドゥドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥバー 灯(ひ)がともる」と、どこがブルースなのかようわからんが、この作品もやはり大傑作である。 僕など、芥川隆行さんのナレーション付きCDをもっている。 だから何が自慢なのか誰にも“わかんねぇだろうな”だが、この事に堂々胸を張りたい。 ビーボより美味いのは、ビーボだけなのだ。

夜が明け、やはり関東でしか見れないTOKYO MXにチャンネルを合わせる。 主要株主に中日新聞、つまりは東京新聞が名を連ねる反安倍政権の先遣隊みたいなイメージだが、地上波で唯一真っ当な番組と思われる「ニュース女子」を放送する局でもある。

話しはそれるが先日、同業の原部長から「いつもブログ見てますよ」と言われ動揺した。 だって僕が書いてる事は、小島昇一と福西雅之2名のみを意識した内容に終始していて、いわば内輪受けの極致、閉じた世界観に成り立っているのだ。
それが以前、百田尚樹「カエルの楽園」の書籍を添付したところ、僕が推薦したと判断、購入されたという。 冷や汗タラリである。 謙遜抜きに、他人に影響を与えるそんな人間に育った覚えなど、僕にはなかったからだ。

16122586_1543499942331962_2482086223405907968_nそこで畏れ多き原部長に、改めお勧めさせて頂くとすれば、BS11木曜午前2時から「ニュース女子」が、2週遅れくらいで放送されております。 もし視聴可能な環境にありましたら、こちらは無償ですのでぜひご覧ください。 まさか起きていられる時間帯ではありませんので、予約録画でどうぞ。
ちなみに10月5日放送分は、「大好評第3弾!財務省はなぜダメなのか?元官僚・高橋洋一が大暴露!「財務省はウソつきだ」!?10年間公表できなかった財務省の秘密とは?最強官庁「財務省」徹底解剖!」とありました。 高橋洋一さんのお話は、目からウロコ間違いなしですよ。

TOKYO MXでは堀潤司会の朝の番組で、やはり小池百合子の話題を取り上げていたが、希望の党党首でなく東京都知事に対する視点であったのが新鮮だった。 東京の番組だから、これが自然なのだろう。
分析も客観的で、大手メディアとはだいぶ趣が異なり、都民ファーストの会の評価などけっこう辛辣でさえある。 都議選前はあんなに威勢の良かった音喜多氏含め、都民の代表のはずの議員の意見が事務局によって完全に押さえこまれている異常性をついていた。 安倍政権などありもしないモリカケ“問題”でサンドバック状態にされているのに、都議会の現状を指摘する大マスコミは皆無に等しい。 このままいくとマジでオリンピック、ヤバいかもよ。 都知事のおばちゃん、自ら作った問題放り出して、国政に行こうとしてるしね。

9時少し前、ホテルを後にする。 風が冷たく湿度も低い。 今朝、秋が来た。

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仕付けの感性

2026076l中国には、日本語の「躾(しつけ)」に該当する語がないそうだ。 よって「躾」は“漢字”でなく“国字”であると、インターネット番組で江崎孝氏が話されていた。 江崎氏おっしゃるには、日本の「躾」に学ぼうというのが、今の中国教育界のトレンドだそうな。

「身」と「美」の合わさった「躾」とは、もともと「着物を仕付ける」を成り立ちとする。 ここで「仕付け」とは、着物の形が整うよう、仮に縫いつけておく行為。 着物が縫いあがると、仕付けの糸ははずされる。 つまり着物の完成をもって、もはや仕付けの糸はそこにあってはならない存在へと意味を変えるのだ。

五歳から七歳の子どもたちは、いよいよしつけ糸をはずしはじめる年齢にあたります。 それまでは親が外側から枠組みを与えて、子どもに行為や生活習慣をかたちづくらせていたのですが、いよいよその枠をはずして、子どもが自分の力でみずからの行為や生活習慣を生み出しはじめる時期に入っていきます。

しつけ糸をはずすことは、いうまでもなく、子どもを本人の自律にゆだねることです。 しつけとは、もともと自律に向けてのしつけなのです。 外からの強制によって社会のきまりをあてがうことよりも、むしろそうした外的強制をとりはずすことをめざすものです。 しつけが不要になるようにしつける、といってよいかもしれません。

この「はずす」ことが、子どもの発達にとっても重要な意味をもつのです。 (「幼児期 子どもは世界をどうつかむか」岡本夏木著)

なるほど、さすがは“国字”。 「守破離」の師弟関係を親子関係に置き換えた、同義の思想の込められた語であったか。

上達への近道は「守破離」の「守:素直な心で師の教えを忠実に守ること」でした。 貴方の尊敬する人(人生の師、仕事上の師)は誰ですか? 「素直な心」とは、自分自身いたならさを認め、そこから努力するという謙虚な姿勢のことです。 本当に伸びる人は、「素直な心」をもって人の意見をよく聞き、常に反省し自分自身を見つめることの出来る人です。 そうした「素直な心」でいると、その人の周辺にはやなり同じような心根をもった人が集まってきて、物事がうまく運んでいくものです。 自分にとって耳の痛い言葉こそ、本当は自分を伸ばしてくれるものであると受け止める謙虚な姿勢が必要です。 (京セラ・KDDI創業者の稲盛和夫さんの言葉)

「守破離」の「守」は師匠に言われたこと、師の流儀・型を習い『守る』こと。 「破」は師の流儀を極めた後に、他流も研究すること。 その型を自分と照らし合わせ、自分に合ったより良いと思われる型をつくることにより、既存の型を『破る』こと。 「離」は自己の研究を集大成し、独自の境地を拓いて一流を編み出すこと。 師匠の型、そして自分自身が造り出した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から『離れる』こと。

「躾」は親によってo0500040913278118701なされ、幼児は善悪の判断なく(判断を出来ず)これに従う。 やがて成長の過程にあって、親以外の外部と接触するようになると、そこに様々な価値観を知り、自らが思考・模索を始める。 やがて子供が自立するとき、重なる部分はあっても親のコピーでないオリジナルのおのれが備わっていなければならない。 親がしつけた糸の跡は、残してはならないということだ。

「守破離」と「躾」が異なるのは、前者が達人や智者、少なくとも豊富な経験を有する伝え手であるのに対し、後者は必ずしも「身」の「美」しい存在と限らない点だ。 自らがしつけの糸を、親に外してもらえないまま子を持つ身に転じてしまった人も、少なからずいると思われる。

今朝(8月31日)の民放テレビ各局で、「世界的トランペッター・日野皓正が中学生を往復ビンタ」とやっていた。
報道の細部までは立ち入らない。 世田谷区教育委員会主催「日野皓正 presents “Jazz for Kids”」というイベントで、舞台の隅にいた日野氏が、ドラムを叩く男の子に歩み寄って体罰を加えたというもの。 毎年公募で区内の中学生が集められ、4カ月間、日野氏をはじめとした数名の講師のもとで練習を積み、8月のコンサートが発表の場となるそうだ。 ドラムを叩く中学生の髪を引っ張り回した後、往復ビンタを浴びせる日野氏の映像を各局流したうえ、「お金を払って観にいったのに、連れて行った自分の子供があんな暴力行為を見せられてしまった。 子供から『あのおじさんは何で子供を叩いているの?』と聞かれましたが、うまく説明できませんでした」などと、一部親のコメントをかぶせる。

出社だから8時以降の番組は確認していないが、例によって女優やらコメンテーターやら、「理由の如何を問わず暴力はいけない」と、生徒への“暴行”を杓定規に嘆いたそうな。 いや、杓定規というと、どこかで筋が通っていそうな印象にもなりかねないから、使い方が間違っているか。 こういう人は、日本に向けてミサイルぶっ放す北朝鮮にも同じことを言うんだろうし、さらに返す刀で「我が国が暴力に暴力で応えることは、ぜっ~たいに!あってはなりませ~ん~!」くらい主張しそうだ。 なんにしろ、今回の報道がこれから先子供たちに与える影響などまるで考えない、絶望的に仕付けの糸のとれていない人達であるのは間違いない。 暴力=悪。 この嘘か真か知れぬマニュアルでしか、人間というものを判断できない多数派によって、世の中はどんどんいびつになっていく。

「世界的トランペッター」とどの局のMCも気軽に口にするが、では本当のところ、世界で日野皓正はどれほどの存在なのか? 字義通り受け止めるならば、大変な影響力を有する存在のはずだろう。 僕だって決して好みのプレーヤーとは言えないものの、その実力まで否定する事は出来ない。 圧倒的なテクニックは、「世界的」という冠に恥じぬものだと思う。
ではなぜ、「世界的トランペッター」は世田谷区の普通の中学生のため、ここまで情熱を傾けてきたのか。 売名の必要などむろん無く、だいたいそんなコンサート毎年やっていたなんて、今回の報道がなければ誰も知らなかったはずだ。

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74歳と老境に入った日野が、恐らくは彼の奥底の思いから次世代に繋ごうとする行為を、表に現れた上澄みだけをもって批判する輩に対し、怒りの念を禁じ得ない。 どうでもいい話をここまで大仰に報道し、来年も世田谷区は同じ催しを続けられるのか、「世界的トランペッター」は要請があったとして請けるのか、暗澹たる気持ちになる。 日野照正から躾られるはずであった子供たちのチャンスを、商業主義一辺倒の軽薄報道と、暴力=悪のマニュアル人間たちによって踏みにじられるとすれば、こちらの“暴力”行為こそ、取り返しのつかない愚行である。 キミたち、恥を知れ。 真剣に向き合うほどに、相手が子供だろうと、手加減抜きに腹を建てる情熱こそが「世界的トランペッター」を支えるものであろうし、そうした場に立ち会えた僥倖こそ、世の親であれば感謝しなければならないはずだ。 怒ることを忘れ、ミサイルを撃たれればおろおろするばかりの国民性こそ、ますます相手をつけ上がらせ、さらに攻撃をエスカレートさせる態度とは思わないか。 もっと僕たちは、肚の底から怒りを募らせるべき時だ。 やる気なら、相手になるぞ。 その代わり一度抜いた刀はお前を仕留めるまで、鞘に戻ることはないからな。 その殺るか殺られるかの覚悟があって初めて、「平和主義者」言うところの対話の可能性も生まれるんじゃないのか。

最後に、ふだん何気なく使っている“漢字”も、なるほど“漢”(紀元前206年 –~紀元後220年までの王朝)の“字”であったかと、恥ずかしながら生まれて初めて理解した。 2000年前に日本に伝わってきた漢字は50000字以上あると言われているが、そのうち2600字は日本でつくられた“国字”だそうだ。 「鱚(きす)」、「鰯(いわし)」、「鱈(たら)」、「鰤(ぶり)」、「鯰(なまず)」、「鮃(ひらめ)」、「鰰(はたはた)」、「鮑(あわび)」、「鮹(たこ)」。 なるほど、魚は日本の食文化だものね。

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メディアの断末魔

北の隣国で、核搭載可能なICBM(大陸間弾道ミサイル)が完成間近と騒がれる。 そもそも10数年も前から、日本全土に着弾可能な中距離弾道ミサイル「ノドン」が実用化・配備されているのに関わらずだ。 今回のメディア報道は、北の核武装が最終段階にあることと、米朝の緊張が最大限に高まっている事態を示すにすぎず、国防の観点からすれば、今さら感は否めない。

北がその気になって攻撃すれば、今すぐにでも日本は終わるか、最低でも壊滅的な被害をこうむる、それが厳然たる事実だ。 アメリカの意志や中国の出方が云々といった他国の都合ばかりでなく、僕たちが生活するこの国土をどう守り、そのために何を覚悟しなければならないか、そういった視点で物事を論じる者が、メジャーなメディアで皆無に等しい。 今もなく、10数年前にもなく、もしかしたら戦後70年間、僕たちが持たずに過ごして来た、それは“覚悟”かもしれない。

では日本側の迎撃態勢は万全かというに、もちろん敵方に正確な情報を与えるわけにいかない国家機密であっても、100%防御可能を言い切る専門家は皆無だ。
1発なら90%前後とされる迎撃精度も、発射場所が移動式となって直前までつかみにくく、しかも3発同時に打ってくるという演習まで、相手国は成功させている。 もし日本への攻撃が現実となれば、再び核被爆国となる惨状は避けがたい。

5月の記念日に合わせ、安倍首相が憲法の一部修正・もしくは加憲に言及したのも、こうした危機的状況を前にした現実的アプローチであったろう。
憲法9条1項と2項を維持しながら自衛隊の存在を明記するとした今回の案は、9条に「国防軍」の保持を明記する自民の改憲草案(2012年策定)から、大きく後退したようにみえる。 新たな改憲案は「(12年草案と)違うので、批判もあると思うが、それを受け止めながら結果を出したい。 いかに苦しくても(党を)まとめあげる決意だ」と、国のリーダーは真摯に訴えた。

そこから、何が始まったか。 マスメディアによる、あまりに露骨な倒閣運動である。 とくにテレビ局の総攻撃には、目を覆うものがあった。

1月に接触事故があり、首と腰にダメージを負った僕の配偶者は、家で横になってテレビをつける時間が必然的に多くなった。 その彼女がしきりと、安倍政権批判を口にする。 つど僕がそれを否定し、口論となる。
それもあながち、無理な話と思えない。 安倍首相(および周辺関係者)に対する思い込み・ねつ造を、情報弱者でありながら発言力だけはやたらと大きいタレントに語らせるワイドショーの手法、言動の切り貼りによる印象操作は、実に徹底している。 たちが悪いのは独裁国家のように、報道など鵜呑みにしないという国民の常識がないため、流される情報がすべて真実であるかのごとく、受け止められてしまうことだ。

大局から観れば、日本を不安定化させて喜ぶのは誰か、一目瞭然のはずだ。 しかし何故か、日本を貶めることに必死な人達が少なくない。

1970年代、三菱重工爆破事件・連続企業爆破事件などのテロを連続させた東アジア反日武装戦線に、「反日亡国論」という思想がある。

teroprm1505210008-p1_201705241045317f3日本という国は、明治帝国主義による朝鮮侵略・琉球侵略・アイヌ侵略など、建国以来、侵略・虐殺の歴史を繰り返してきた。 その遺伝子を受け継ぐ現代のあらゆる日本人は、恥さらしで醜悪な犯罪者である。 よって日本という史跡そのものを解体しなくては、根本的な解決に至らない。 過去を完璧に消し去れば、我々はやっと償いを終えて、他国からの赦しを得られるだろう。 そのためには、建国以来の日本的・大和的なもの、及びそれに連なる一切の伝統文化・風習・民族、そしてアイデンティティを根絶やしにするしかない。 道理を重んずるのであれば、むしろ非国民たるべきだし、反日売国奴と呼ばれることに誇りを持つべきである。

日本を愛するがゆえに、根本から日本を否定し、イチから再生すべしというのが彼らの主張である。 アホらしいと、あなたは一笑されるかもしれない。 しかし、こうした極端な思想を持つ人物が国を掌握した悪夢のような現実を、現代史は示している。

1976年かphoto_4ら1979年、カンボジアを支配したポル=ポト政権では、原始共産制の実現のため通貨を廃止し、学校教育の否定などからおびただしい犠牲者を出した。 旧勢力や帝国主義勢力のスパイから防衛するという口実で、暴力的な排除を正当化する。 原始共産主義に害をなす存在として、医師や教育者など知識人層が皆殺しにされる。 カンボジアは完全な監視社会となり、洗脳を受けた子供たちは、だんらんの場で一言愚痴をこぼしたと親を密告し、自らも肉親の処刑に加わるという悲劇まで繰り返された。 何の罪もなく無抵抗な同じ民族を、100万人単位で拷問・虐殺したと記録にある。 言語に絶する行いは、理想の国家を築こうとする独裁者の迷妄から生まれたものだ。 過去をリセットし、理想の国家を打ち立てる。 それはまさに、(彼ら言うところの)中国三千年の歴史でもある。 暴力革命を実現した、全ての国家の理念でもある。

集約された権力は、当然の帰結として歯止めを失う。 正論・反対を唱えるものは即粛清される。 肚でどう思おうが表面上はイエスマンに徹しなければ、やはり命を取られる。 「ボス、それやばいっすよ」などの忠告は、一切ご法度の社会にならざるを得ない。

安倍首相をヒトラーになぞらえ、堂々と街宣して回れる今の日本は、その対極にある。 なんという自由な、もしかすると自由に過ぎてかつ無責任に過ぎる国だろうか。 アベノミクス効果によって株価は2万円台を維持し、若者が就職氷河期に苦しんだのもいつの話しか深刻な人手不足へと転じ、経済的な努力を評価されて然るべき政権が、本当は問題でもなんでもない加計や森友といった事象で追い込まれているのは、もしかして「反日亡国論」が功を奏しているのではあるまいかと、疑ってしまいたくもなる。 日本の総理大臣ほど報われない職業はないと、有本香さんがおっしゃっていた。

では僕たちは、NHKや朝日新聞に代表されるマスメディアによって、「反日亡国」一色に洗脳された危機的な時代を生きているのだろか。 もちろん今が、国難というに値する環境にあるのは事実かもしれない。 では、昔の日本においてどうであったか。

img_1批評家・江藤淳は、最大の国難の時代を戦後ではなく、江戸末期から明治初期に見出す。 開国によって、民心は二分された。 「攘夷的保守論」に代表される閉ざされたナショナリズムと、窓を世界に開きながらあやまりなく自己実現をしていこうとする開国的ナショナリズムである。
その過程にあって、江藤はややもすれば歴史の中に埋もれがちな徳川慶喜を高く評価する。 同時に勝海舟こそ、危機回避のため当時最良のインテリジェンス(外国の軍事・政治・経済に関する情報を収集する能力)であり、今の時代の手本になるとも説いている。 1960年代に記された彼の批評は、まるで今を示しているかのごとく正鵠を射ている。

私どもがやらなければならないことに、景気の良いことは何もない。 たいへん地味なことばかりである。 しかしその地味なことを着実に実行していくために、どれほどの強い信念と知力、どれほど大きな胆力が必要であるか(二つのナショナリズム)

平和とは戦争回避の国利に根ざした努力の継続にほかならず、民主主義とはそれを否定する要素を内包することによってはじめて成立する体制だというのである。 人が生きるとは、善のみならず悪をもおかしつつ生きるということである。 それがどうして国家についても真実でないことがあろうか(新しい国体)

ただ、憲法が一切を変えてしまうということはありえず、平和は戦争の回避でしかないという事実をみとめるだけである。 そして、そういう事実に対してできるだけ虚心にならなければ、― 知識人の信奉してきた仮構ではなく、希望的観測を去ってものごとの有様を一旦眺めつくさなければ、政治的な実行についてなにもはじまるわけはないというのである。
「戦後」という仮構をとり去ってみるがいい。 日本を支えてきたものが実際家たちの努力で、それを危機に追いやったのが理想家の幻想であったという一本の筋が今日にまでつながっているのが見えるであろう。 そしてこの実際家のひとりひとりが、どれほどの不幸に耐えて来ているかということが見えるであろう。(中略)
ものの役に立つ思想などという既製品がそこらへんにごろごろしているはずはない。 自分の眼で見たことを自分でいう以外に思想に役の立ち方などありはしない。 権力と思想、道徳の野合はもう沢山である(“戦後”知識人の破産)

いまから50年以上も昔、実際家(=国を動かす人達)の地道な努力と常なる不幸を予見し、ものの役に立たない思想を振りかざし国を危機に追い込む理想家(=メディア・権威主義的学者・左派政党)の破たんを説いた江藤の批評は、古びるどころか、ますますリアリティをもって読み手に迫ってくる。

明治維新から今日に至るまで、何度と訪れた国家の危機を回避してこられたのは、報われること少ない実際家の行動によってのみである。 僕たちはその本質的な努力の結実のみを注視し、理想家の耳障りよく平易で虚ろな言葉に、決して心乱されてはならない。 腐敗したマスメディアなど、“もう沢山である”。

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茶いろの鞄

万葉集に、恋は「孤悲」、若しくは「故非」と記される。

目の前にない、人や事物を慕わしく思うこと。 心ひかれ、それを自分のそばにおきたいと思うこと。 自分の求める人や事物が自分の手中にある時は『恋』の思いとならず、手中にしたいという思いのかなえられず、強くそれを願う気持ちが恋なのである(旺文社 『古語辞典』)

「孤悲」とは弧り悲しむこと、「故非」すなわち、古き(故)はすでに非ず(過去)と、取り戻すこと敵わない恋を万葉びとは歌に詠んだ。 あまりにありふれた私的嘆きを、はかなき人の世に照らし、風雅を感じさせずにおかぬ歌の高みにまで昇華したと言って良い。
それは、7世紀から8世紀にかけて編まれた現存する最古の和歌集であり、僕たち日本人の文明は、闘争や収奪・勝利の凱歌でなく、夕暮れ澄み渡る秋の茜ほどに切ない、抒情歌によって開かれたわけだ。

太田裕美の「茶いろの鞄」もまた、いにしえより歌い継がれる万葉びとの、「孤悲」と「故非」とのつつましき系譜だ。

路面電車でガタゴト走り 橋を渡れば校庭がある

のばした髪に帽子をのせた あいつの影がねえ見えるようだわ

人は誰でも振り返るのよ 机の奥の茶色の鞄

埃をそっと指でぬぐうと よみがえるのよ 懐しい日々

「赤いハイヒール」のB面に入っていた曲。 A面がヒットを最優先に作られるのだとすれば、B面は、歌い手の人品がより表に現れやすい選曲だったように思う。
冒頭、フルートの、少し強めにコントロールされたソロが吹かれだすと、主人公である彼女の想いは、過去へといざなわれていく。 少女だった昔、通った校舎。 そうして佇めば、“あいつ”の影が現れる。 “のばした髪に帽子”の出で立ちが、特定のある時代をしのばせながら、「故非」が彼女を包み始める。

学生服に煙草かくして 代返させてサボったあいつ

人間らしく生きたいんだと 私にだけは ねえやさしかったわ

もう帰らない遠い日なのに あの日のままね茶色の鞄

大人になって変わる私を 恥ずかしいよな気持にさせる

“人間らしく生きたい”と、未熟な“あいつ”が口にする。 かつての少女は男に優しさを見出し、しかし今は“大人になって変わる”自分に羞恥を覚える。 時代は移り、人は変わる。 茶色の鞄だけが時の流れの外にいて、主人公の「孤悲」をひときわに募らせる。 そうして間奏のストリングが堰を切ったように溢れ出し、多感な中学生の聴き手を、“あいつ”と少女が過ごした過去へ、瞬時に連れ去ったのだ。 この短いIntermezzoは、聴くつど変わらず胸を騒がせ、想いを焦がす。

運ぶ夢などもう何もない 中は空っぽ茶色の鞄

誰も自分の倖せはかる ものさしなんて持ってなかった

誰かが描いた相合傘を 黒板消しでおこって拭いた

あいつも今は色褪せてゆく 写真の中で ねえ逢えるだけなの

C6JeY4lVMAENXdxこれはしかし、あまりに個人的な少年時代の経験であって、不朽の一曲などと、胸を張ってお勧めしたい音楽ではない。 掛け替えのない宝のような響きは、茶色の鞄と同様に、“あの日のまま”僕の裡にだけあるのだ。

あなたには、そのような一曲があるだろうか。 いにしえからの遠きこだまは、誰のなかにもおぼろに響き、その時代時代の歌に、形は変えても継がれ続ける気がしてならない。 それとも、万葉の系譜がついに絶えてしまった時代を、僕らは生きているのだろうか。

裕美ちゃんのスキャットは、いつしか虚空へと消えて行く。 戻らぬ「故非」のエコーは今も、日本の僕らの裡にしっかりと響いているだろうか。

 

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赤いハイヒール

世にCDが出回る以前だからもう40年も昔、「無人島にもって行く一枚」という企画が流行った。 LPレコードの時代である。
再生装置があって電気は通じているのに、何故かレコードは一枚しか持っていけないという設定だ。

「レコードコレクターズ」とか「ジャズ批評」だけじゃなく、少年誌・週刊誌に至るまで特集が組まれていた気がする。 クラシック、ジャズに始まり、ロックも歌謡曲も、有名無名の書き手が「それしか聴けない」という究極の条件に相応しい一枚を選んでいた。 想像する側・読み手側ともに、そのシチュエーションを大いに楽しんだはずだ。

たった一枚しか聴けない前提と、まったく音楽がない状態の間には、どれほどの差があるのか。 聴けないと最初から諦めるより、一枚だけを聴き続ける方が、かえって渇望を募らせたりはしまいか。

だから、なまじ再生装置など不要である。 無人島で音楽は聴かないと、まずは腹をくくる。 そうはいっても絶対に、100%、持参しなかったことを後悔するのはわかっているけれど。
でも、レコードは持っていくつもりだ。 CDじゃなくて、ましてノート・パソコンに1テラバイトのハードディスクでは明らかに反則だし(それだとオーディオ装置が欲しくなるし)、ドーナツ盤と呼ばれたシングル・レコードにする。 A面1曲・B面1曲しか入っていない、これこそは究極の一枚となる。

太田裕美の「赤いハイヒール」。 確認すれば1976年6月1日のリリースとあり、中学二年生だった当時の記憶と、ピタリ合う。

「イトー・ミュージック」は京成「大久保駅」から商店街の通りを、数分歩いたところにあった。 高価なレコードを買うなど年に数えるほどもない当時の僕は、次の一枚を吟味しようと週の半分ほどを、夕時の「イトー・ミュージック」まで通った。

images腰ほどの高さに並んだレコードを、一枚一枚引き上げてはジャケットを見つめ、帯にある謳い文句と共に中身を想像していく。 レコードはずっしり重くて大きくて、加えて独特の匂いもあって、実在感ある表紙を眺めるその行為だけで、幸せな気分に満たされた。
中学校生活は最悪だったが、多分、それは今も昔も変わらないだろう。 街にレコード屋があって、当時の流行歌があちらこちらから流れていて、惣菜屋・八百屋・肉屋・花屋の匂いが混然と通りを満たしていたあの時代。 本屋で文庫本を開けば、角川には角川の、新潮には新潮の、創元推理文庫には創元社なりの、出版社特有の紙の薫りがあった。 無味無臭の今では決して味わえない、生活に密着したところに文化が息づいていたのだ。 限られた情報はすべて紙媒体で、世界はまだ見ぬ不思議に溢れていた。

その時代に、戻りたいと言うのではない。 取り戻せない過去があり、取り返しのつかない今があるという、認識を持っているに過ぎない。

少年がいつものようにレコードを漁っていたその日、とつぜん女声の澄んだファルセットが店内を包んだ。 サーと、心地よい風が全身を吹き抜ける。 そして音楽が、体の深いところにまで浸み渡っていくのを感じた。
レジ横に据えられたレコード・プレーヤー手前の「NOW PLAYING」に、レコードジャケットが立てかけられている。 それが、「赤いハイヒール」。

前年の冬リリースされた太田裕美「木綿のハンカチーフ」は、「およげ!たいやきくん」「北の宿から」に次ぐ大ヒットとなった。 それでもビートルズ、ディープ・パープルなど洋楽一辺倒だった当時の少年にとって、興味の外にあったらしい。 初めて耳にしたこの世のものと思えぬ声に吸い寄せられ、足がレジへと向かう。 そこで出会ったのはどこか大人びて、一方で少女の面影残す裕美ちゃんのポートレート。 瞬間、恋に落ちた。 少年はそれを自分に向けて、容易に認めはしなかったけれど。

では、その場で「赤いハイヒール」を購入したかといえばさにあらず。 しばらく間が空いた記憶がある。 その日は何も買わず帰宅し、600円のシングルを買うか否か、悶々とする時間を過ごした。 全ては少年の、自意識過剰さのゆえである。 洋楽は世界的に認知された音楽であるのに対し、島国の、しかもアイドルの音楽なんて聴いてイイのだろうか、本当に悩んだのだ。 結局、裕美ちゃんの圧倒的な魅力に抗う事は出来なかったが。

数日後レコードを購入し、足早に帰宅すると自室のドアを閉め、興奮に指を震わせながら針を落とす。 彼女のアカペラに始まるこの編曲は、今聴いても新鮮に響くはずだ。

「擦り切れるまでレコードを聴いた」「ワカメ状になるまでカセットを繰り返した」 当時の人達は、夢中になって音楽を聴いた経験をそのように表現している。 僕もそうだった。 何度聴いても、飽きると言う事がなかった。 昔の自分が羨ましいくらい、音楽に集中できた。

正直言って「赤いハイヒール」は、前作「木綿のハンカチーフ」の二匹目のどじょうである。 男女の対話に物語がつづられる斬新な展開(絶頂期の松本隆!)は、そのまま本作にも継承されている。 ヒットする要素だけなら前作の方が間違いなくあるし、今でも太田裕美の代名詞と言えば、「木綿のハンカチーフ」である。

「木綿のハンカチーフ」では都会に出ていく男と故郷に残る女との対話が歌われるのに対し、「赤いハイヒール」で地方から上京するのは女の方であり、故郷に連れ帰ろうとするのが男となる。 前作が離別を描くのに対し、本作は未来の幸せを予感させて終わる。 「木綿のハンカチーフ」が素朴な地方を連想させるタイトルであるのと対照的に、「赤いハイヒール」というタイトルからは先進のファッションであったり、工場における大量生産だったりを連想させる。 いずれにしろ、どちらも傑出した詞の世界である。

では、曲の方はどうだろう。 こちらも不世出の大作曲家、筒美京平の手になる。 松本・筒美コンビと言えば、世評に高いのは松田聖子一連のヒット曲だが、太田裕美の時代こそ絶頂であったと、僕個人は断じてしまう。 「赤いスイトピー」はいつか枯れるが、「赤いハイヒール」の色鮮やかなエナメルは、永く輝きを失わないだろうから。

「木綿のハンカチーフ」では、一貫して長調が保たれる。 明るい曲調が却って、愛の喪失の大きさを浮き彫りにする。 スゴイ。 今も聴き継がれるにふさわしい傑作だ。

「赤いハイヒール」では、女の独白が短調、男が女に心の回復を呼びかけるとき長調に転ずる。 単純だが、その効果は絶大。 都会の中で自分を見失い、諦観のうちに日々を送る女に、「ぼくと帰ろう」と男が唄う。  「緑の草原 裸足になろうよ」と。

東京駅、ハイヒール、アランドロン、マニュキア、タイプライター。 資本主義を象徴する単語の羅列が続いた最後に、「緑の草原」がとつじょ現れる。 「裸足になろうよ」とは、虚飾の象徴であるハイヒールを脱ぎ、心を開放すれば「倖せ それでつかめるだろう」との思いからだろうか。

何たる楽観主義、何たるせつなさ。 女からのアンサーはなく、曲は閉じられる。 そう、女の側は自らと現実のみを見つめる事に終始し、男の祈りにも似た愛は、おそらく報われることなく終わったのだ。 この、巧妙に仕組まれ隠された悲劇。 行き着くところまで行かずにはすまない人間の性は、自然への回帰という祈りを理解しない。 「死ぬまで踊るあゝ赤い靴 いちどはいたらもう止まらない 誰か救けて赤いハイヒール」

戦争の危機を、これまでにないほど肌身に感じさせる今という時代に、不可逆性の、進化と優位性への希求という意味において、両者は繋がっている。 動き始めた悲劇は、「もう止まらない」のかもしれない。

女が「ふるさと行きC6JeY4lVMAENXdxの切符を買う」ことはなく、男がひとり「緑の草原」を「裸足に」なることもなかったはず。 長調で締めくくられるのは「木綿のハンカチーフ」の踏襲のようでいて、より深き所からの哀しみが、聴く者の心を震わせるのだ。

ところで僕が無人島に「赤いハイヒール」を持っていくのは、A面ではなく、B面ゆえなのだ。 聴くすべのないレコードをわざわざ持っていくのも、B面を知ってしまったからこそである。 たぶん次回、そのことについて書く。 太田裕美について書きだしたら、「もう止まらない」かもしれない。

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国家の軸ってどこにあるの

おとなり韓国を「法治国家」でなく、「情治国家」だと定義する人がいる。 法よりもその時どきの国民感情が上位にあって、社会的影響力大の裁判判決も左右してしまうためだ。

法令の効力が現実化するのはその施行後であって、過去の出来事には適用されない。 これを法の不遡及(ふそきゅう)と呼ぶ。
考えてみれば当たり前の話で、法の制定後、さかのぼって全ての対象者が罰せられるとなれば、30数年前に会社勤めだった今のおジイちゃん達の大半は、当時のOLさんからセクハラで訴えられかねなくなる(ちなみにOL=オフィス・レディは、今や放送禁止用語)。
セクシュアル・ハラスメントの定義を簡単に言えば、「相手が不快に感じる性的な言動」となるためだ。

41T22K6161Lこの定義に従えば、肩に手を置き「おはよう」程度の挨拶も対象になるし、「髪切った?失恋でもしたのか」などと揶揄するのは御法度、パソコンのスクリーンセイバーに黒木香のわき毛画像(古い?パティ・スミスならOKかも)を使用するのだって微妙だろう。

男からすれば親愛の情を示す行為も、受け手に不快と判断され訴えられでもすれば、まず勝ち目はない。

しかし男の側からすれば、性的ジョークの一つうっかり言えない人生などクリープを入れないコーヒーのようなもので、と思っていたら最近、20代男子数名と会話する機会があって、「彼女つくると自分の時間がなくなって面倒くさいっすよ」などとマジで口にするのが出現して、男から見た“弱者的立場”にある女性に配慮するあまり、本来の“男”の特性が薄められてきてるんじゃないかと、危惧をするのである。
「人非人、キチガイ、毛唐、おとしまえ」みんな放送禁止用語である。 いま「かたわ」を漢字変換しようとしたら、「片輪」の文字が出てこないのにはびっくりした。 もう死語化しているのである。
言葉の一つひとつには相応の歴史と理由があって、存在をするものだ。 特定の人が傷つくからと、根底にある差別意識にはまったく手を付けず言葉だけを消してしまった今の社会にあって、障害者施設で大量殺人が起こったのは昨年の話だ。 犯人の意識に沈殿していった選別思想と、“ある”ものをまるで存在しないが如く振る舞うこうした風潮とが、無関係とも思えない。
モーツァルト至上の音楽が、「ウンコ、ゲロ」など日常会話に連発する幼児のごとき感性から生み出されたものであるのを、忘れるべきではない。 上品な人から上品な芸術が生み出されるわけでは、決してないのだ。 天賦の才は規制のない所にあって初めて、限りなき翼を広げるのだ。 過度の規制は人の可能性を狭め、一方で危険な思考を冗長する、デメリットを有している気がしてならない。

話しを元に戻せば、法の不遡及(ふそきゅう)こそは人類のスタンダードのはずだが、韓国では2005年、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(通称『反日法』)」が制定されている。
大韓民国大統領直属の国家機関が、親日反民族行為者財産調査委員会を設置し、親日であった反民族行為者の財産を選定して国家に帰属するというのだ。 同年には、「親日人名事典編纂委員会」により「親日人士」3090人の名簿も発表されている。 1904年の日露戦争開戦から1945年の光復(解放)までに、親日反民族行為者が取得した財産は、親日行為の代価として得たものであり、国家が還収することは憲法に反しないという憲法裁判所の決定も下されている。  こうした遡及立法が、まかり通る国なのだ。

日本に置き換えれば、かつて北朝鮮を「地上の楽園」と喧伝し、多くの日本人妻を欺き彼の地へと送り込んだ旧社会党の皆様、戦前は軍国主義を礼賛・戦後は一転して反日報道に明け暮れる朝日新聞・毎日新聞のお歴々を、遡及立法によって処罰するようなものである。 それはそれで心情的には大へん是であるが、同時に到底許されるものでない事も、「法治国家」に生きる僕たちにとって自明の理である。

しかしやっぱ日本も「情治国家」、っていうかその要素は多分にあるんじゃね?と思わせられたのが、最近だと今村復興相の失言辞任劇である。
4月4日、前振りとなった記者会見がある。 東京電力福島第1原発事故に伴う自主避難者への対応を巡り、質問をしたフリージャーナリストに対し、「出て行きなさい」「うるさい」などと述べたうえで、会見を打ち切って退室する映像がテレビで流され続けた。
記者からの「大臣自身が実情を知らないのでは」との問いに「(避難先からの帰還を)どうするかは本人の責任、判断だ」と応じ、「なぜ帰れないか、とかの実情を大臣自身がご存知ないからではないか?それを人のせいにするのは、僕は…」と畳み掛けられ、キレてしまったという。
ここだけを切り取り、「こんな人が復興相でいいんでょうか」的な発言がコメンテーターから繰り返されると、いかにも困った大臣と映る仕6e4ccb69掛けだ。
しかしこのやり取りの全文を見ると(ネットで見れます)、記者の側にも悪意と言うか底意のあることがわかって、要は千葉や群馬から自主避難した人たちまでを含め、支援を止めると路頭に迷うと挑発しているのだ。 この理屈でいけば、日本にはもはや安全な場所はなく、海外に移住するから援助せよと言っても通る話になってしまう。 科学的に安全と根拠が示されて、まして「県外」の自主避難者にまで援助を続けろとはあまりに論理の飛躍であり、国にその財政的余裕のあるはずもない。
かわいそうに、大臣というマスコミにとって悪の役回りと、人相に険があるのが格好の標的となって、ボコボコに叩かれ陳謝するに至った。 その根底にあるのは“権力”を監視することではなく、叩くことこそ正義と勘違いしている報道姿勢だろう。

そして25日、二度目の致命的な失言が報道される。 所属する二階派のパーティーの講演で、「社会資本の毀損もいろいろな勘定の仕方があるが、25兆円という数字もあります。 これがまだ東北であっちの方だったからよかった。 首都圏に近かったりすると莫大な被害があったと思う」と述べたのだ。

言葉が命の政治家の発言として、軽いことは否めない。 大変な失言であるのは間違いなく、この人をかばいたい気持ちなど起こらない。
ただ、文脈を素直にたどれば、首都圏より東北の人命が軽いとは読めない。 東北を軽んじているわけでは決してなく、国という大きな単位で見た時、経済的被害が限定的であるほど復興も進みやすい、そのような解釈は善意に過ぎるかもしれないが、復興相の心情としては自然であろう。 全てを政治的利用の素材としか見ない、トランプさんやプーチンさんのような超一級の悪党に、今村さんはとても見えない。

事の本質はそこにない。 大臣の性格が仮に習近平さんやエルドゥアンさんそっくりだったとしても、ある意味それってスゴイが、就任期間中に復興のため何を達成したかが最初に問われるべきだ。 どんなにねじまがった根性の主であっても、今村大臣がリーダーシップを発揮し復興が大きく前進したのなら、あるいはこれからでもその成果が結実する見込みがあるのであれば、そっちの評価こそ最優先されるべきだろう。

例によって報道は、今回は珍しくネットを含め、「許されない失言」ばかりクローズアップされ51JcxPzRCdL._SX350_BO1,204,203,200_ていた。 大臣が代われば、後任はまたイチからのスタートになる。 これって、被災地の関係者にとって最大の不幸じゃなかろうか。 人の短所の一点のみをたたき、次々と担当者が代わっていくのでは迅速な復興は望めない。 大臣もまた時を重ね育っていく存在であることは、今の国のトップを見ればよくわかるだろう。 人は失敗から学びそれをバネに成長するのだとしたら、一度の失敗にある程度まで寛容であることが求められるはず。 たたくほどに、政治家もメディアも僕たちも小ぶりになっていき、スケール大きな発想をする人間は生まれにくくなっていく。 この深刻な人手不足、解消してくれるメガトン級のアイデア、どなたか出してほしいんですけどね。

そういえば復興相の初代は民主党政権下だったけど、あの人の発言だけは失言じゃなくて、人間のクズだったなぁ。 「オレ九州の人間だから東北の何市がどこの県とか分からない(笑)」。 さすがにこれは、復興大臣にしちゃいかんよな。 当時の総理大臣も、違う意味で歴史に名を残しそうだけど。

※音楽の再生に関しては、うまく軌道修正できれば次回報告します。 ちょっと文字にするのは難しくて、止まっちゃってるんですが。

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苦悩の道楽 快楽の音楽

珍しく連れ合いの方から、浜松駅近くにあるジャズ喫茶に行きたいと言ってきた。 契約農家から直送されるコーヒー豆、高級メーカー中心にあつらえられた調度品、2千万円近くするというオーディオ・セットと、オーナーの強いこだわりを感じさせる店らしい。 テレビの情報番組で見たそうだ。

僕の奥さんは2ヶ月ほど前、パートで通うこども園の通勤途上、後続車に追突された。 それから今に至るまで、小刻みに指が震え腰から下に力が入らず、仕事はおろか家事もままならない事情とあって、気分転換したくなったようだ。 事故からひと月以上経ってようやく実施されたMRI検査の結果、首と腰のヘルニアが確認されている。 娘が名古屋に出張中だったこともあり、久しぶりに週末、家を空けた。

その店に入avantgarde_01るなり「あ、これはダメだ」と、すぐに“わかる”。
世界最大規模と称されるスピーカー群(確かに、かつて見たことがないほどデカイ)からは、ビル・エヴァンス・トリオの「At The Montreux Jazz Festival」が流れている。 1968年、モントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブ盤。 ちょうどドラムがポール・モチアンからマーティ・モレルへの端境期にあたり、ここではジャック・デジョネットが、エヴァンスの膨大な録音にあって例外的に叩いている。
この人、もともとの音がうるさいところにCD独特のドンシャリ(高音域と低音域が強調されて、中音域があまり聞こえない音)がさらに質感・重量感を損ない、僕もずいぶん以前に買ったものの、ほとんど聴かずにきた作品である。

逆を申せば、デジョネットのハイハットを音楽的に堪能できるほどの装置であれば、さすが2千万円と感心もするだろう。 しかし、そうはならない。

店内は結構、デカイ音である。 右手にカウンター、左手前に4人掛け2セットと2人掛け1セット、その奥の壁にはLPレコードが並び、アンプ・プレーヤー類もこの場所に収められている。 アンプは日本の、値段が高いので有名なA社の製品。 マニア垂涎の品である。 アナログ・プレーヤーは真鍮削り出しのベルト・ドライブ、カートリッジはそれこそ、今じゃ珍しいMC型。
最大のウリはスピーカー。  店の奥に進むと、数段降りたところからが本格的な観賞スペースで、昔の名曲喫茶のような吹き抜け構造に、巨大な音響装置が鎮座ましましている。

テレビの影響あったか単に週末だからか、広い店内は20名以上の客でにぎわい、オーダーの途切れる気配がない。 どでかいスピーカーの1列目で腕を組み、目を閉じうなだれ、音楽と対峙するオジサンの姿を認めてちょっと嬉しい。 心は永遠の少年! そういうワタシも、家じゃこうして聴いてるんだけどね。

音が、うるさい。 ちょと聴きにはキレイで、透明度ある澄んだ湖の底を見通すが如く聞こえるし、“高い”音だとは思う。 このCDには実はこれだけの情報量が詰まっているんですよぉ~って自慢されているようで、ウザったくもある。

51PNLAcEEvL._SX349_BO1,204,203,200_“高い”値段なりの“高い”分解能なんだろうけど、音楽になっていないのが致命傷だ。 このシステムでいくら聴いても、音楽はわからない。 デジョネットのドラムスはうるさいんだけど遠くにあって、たとえばロマンスカーのように静かな車両のはるか後方で酔っぱらいが一人騒いでると意味不明な言葉の羅列が何かとうるさいでしょ、あんな感じ。

音はどこまでも他人事として鳴っているに過ぎず、今この場で音楽が再創造されていくのを追体験するなど、出来ぬ相談だ。
高価な装置と太いケーブルを伝ってきた落ちのない正確な情報だから、ほら、こんなにも見事な音になるでしょと、まるでショールームに陳列される商品のような味気なさ、白々しさがある。 あぁ、思い出した。 三島由紀夫の「音楽」が、この感覚に近いかもしれない。 不感症の美女が主人公の、昭和39年発表の名作である。

けっきょく再生装置の基準は値段が高い・安いじゃなくて、音楽がわかる・わからないの2つしかないのだと、つくづく実感させられた。 オーディオは、音楽を忠実に再現することを目的としたものだ。 今さら言うまでもない、自明の理である。 でも、見た目に左右され本質を見誤るのもまた、世の常なのだ。 こんなに金をかけた装置が、悪い音のわけがない。 強い思いこみは味気ない日常を瞬時バラ色にしても、三日経てばアラが目につき始め、ひと月経てば欲求不満ばかりを募らせる。 ここのオーナー、ぜ~ったいフラストレーションの塊りに違いなく、地元メディアや素人さんからいくら称賛されようと、飢餓は増すばかりとみた。 それは“音楽”の再現に意識が向かうのでなく、“音”を金で解決しようとした報いと言えるかもしれない。

ビル・エヴァンスはCDだったし、レコードならもう少しイイ音で聴けるかな… つぶやけば何かLPをリクエストしてみろと、横から催促を受ける。 ジュゼッピ・ローガン「The Giuseppi Logan Quartet」あたりが頭をよぎるが、分別ある成熟した大人の僕は、アート・ペッパーのストリングスものをリクエストする。 どうせESPなんてレーベル、この店にあるはずもないしさ。

「Our Song」。 晩年に、新たな妻との出会いに束の間の平安を見出したペッパーのアルト・サックスが、安堵や諦観と共にどこまでも物悲しく、僕の変わらぬ愛聴盤だ。 この、奏者が不用意にもらしたため息のような、同時に何があろうと吹き続けなければならない業を背負った表現者の凄みまでが伝わらなければ、出来の悪いムード音楽に堕してしまう際どい1曲。

ボツボツと、レコード特有の針音が店内に響く。 ダメだ。 この音だけで、後を聴く必要はないと知る。 絶望的に悪い。 これなら、CDの方がマシかもしれない。

リクエストした手前、鑑賞シートに移動して聴くフルをする。 風呂上りにカゴメトマトジュースを飲む渡哲也のように、心の襞まで沁みるはずの音楽が、頭の上を、ただ通り過ぎていく。

LPの片面が終了したb0199170_16324979。 もう出よう、相手を促す。 悪いけど、コーヒーもさして旨くなかったしな。 イスとかテーブルの価値はよく分からないけど、居心地だってそんなに好いとも思えないぞ。

「ここのオーナー、うちの音聴いたら自殺したくなるんじゃないか」。 僕がそう言うと、いぶかしげな視線が返って来た。 何を大げさなとでも、言いたげな目つきだ。 百聞は一見にしかず、帰ったらさっそくお聴かせしましょう。 “わかる”音がどんなものであるのか、この店のペッパーのアルトを、耳にしっかり記録しておいてくださいね。

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夢かうつつか(続き)

1bc8672b前回トランプさんの事を書いて1か月経過し、その間に国防長官に就任したジェームズ・ノーマン・マティスさんが来日し、その風貌たるやカール・ゴッチやドン・レオ・ジョナサン、ビル・ミラーといった古き善きエッセンスの散りばめられたカッコいいレスラー、じゃなくて軍人さん、でもなくて政府要人だったから、お相手するのは仲谷元さんか小野寺五典さん、欲を言えば保釈中の田母神俊雄さんがよかったなぁと、ちょっとだけ残念な気持ちがしたものだが、阿部首相が渡米すれば大統領から100点満点の回答が引き出されるし、日米関係の強化に関してはスバラごい(「素晴らしい」と「すごい」の造語)成果が、立て続けに生まれている。

これも日米プロレス史をひも解けば、不思議なことは何もなく、むしろ当然の帰結と言える。
トランプさんはWWE(ビンス・マクマホン)に関わることで、現在のプレゼン能力を開花させたことを自ら認めている。
2007年、バトル・オブ・ビリオネアーズ(億万長者対決)が開催された。 不動産王として君臨するトランプさんが、ビデオレターでマクマホン(←彼だけ何故か呼び捨て)に宣戦布告し、両者ともに“ヅラ”疑惑があったため代理レスラーに試合をやらせて、負けた方がツルッパゲにされるというおぞましい対決が実現したのだ。

ビデオを見donald-trump-vince-mcmahonる限り、この当時のトランプさんは大根役者である。 一方、ビンスの振る舞いは堂に入ってこ憎らしく、やっぱ金だけの不動産王に奥深いプロレス道は無理だなと思わせもするが、それから10年経った今、マクマホンも真っ青のパフォーマンスを繰り広げているのだからトランプさんも成長したものである。
ちなみにマクマホンの妻リンダ・マクマホンは、トランプ政権下で第25代アメリカ合衆国中小企業庁長官を務めている。 米国のエスタブリッシュメントがはなから相手にしない、もしかすると無関心ゆえ存在も知らない可能性のあるエンターテイメント・プロレスが、何と、米国を制覇するに至ったわけだ。 あり得ない、でもそれが今の世界の在り様だ。

WWEを今日の地位にまで導いたのはビンス・マクマホンであるが、彼は1925年からニューヨークで興業を始めていたジェス・マクマホンの孫にあたる。 父ビンス・マクマホン・シニアの代に、WWEの原型となるWWWFが設立され、マクマホン・シニアはアントニオ猪木全盛の新日本プロレスでの同ベルトを賭けた試合で、来日もしている。 だから僕の記憶にあるマクマホンは、地味目のスーツを着たお父さんの方である。

o04000400hogan-ko当時の猪木は、ジャイアント馬場の全日本に対抗すべくストロング・スタイルを提唱し、世界最強の男を決めるというプランのもと、第1回「IWGPリーグ戦」を開催する。 その決勝の猪木の相手が、無名の新人だったハルク・ホーガン。 ホーガンの必殺アックスボンバーによるアントニオ猪木失神ベロだしKOシーンはあまりにも有名で、これ以降、新日本プロレスの全盛が長く続く。

このホーガンをAWAから引き抜き、突如お茶の間から消してしまったのが、にっくきビンス・マクマホンである。 1985年3月31日、世界最大規模のレッスルマニア第1回大会がマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、WWE(当時のWWF)は不動の地位を獲得する。 ホーガンはまず日本でスター性を見出され、アメリカに於いてその才能を開花させたのだ。 まるで前田光世(1878年 – 1941年)がブラジルに伝承し、逆輸入されたグレイシー柔術と、そっくりなプロセスではないか。

ホーガンに限らずWWE所属のレスラーからは、それまでのアメリカン・スタイルでなく、日本の影響が色濃く映る。 元WWEチャンピオンで現解説者のJBL(ジョン・ブラッドショー・レイフィールド)は実況の端々で、「マサ(齊藤)の監獄ロックは効くぜ!」「まるでブロディ対イノキの試合を見ているようだ!」「ハッハ! キラー・カーンのモンゴリアンチョップを見習ったらどうだい」などと、日本の正しい知識人であれば随喜の涙を流さずにいられないコメント満載なのである。
退団してしまったが僕の大好きなCMパンクに至っては、必殺技がGTS(ゴー・トゥ・スリープ)・つまりKENTAのフィニッシュであり、武藤敬司のシャイニング・ウィザード、河津落としの発展形であるデビルロックDDTを多用し、ダイビング・エルボー・ドロップもやれば延髄斬り(JBLの「エンズイギィリ~!」のシャウトが素敵)まで、キミは日本人か!くらいの技のオンパレードであった。

何だっけ。

そう、トランプさんの政治にはWWEのショーマンシップが裏打ちされ、同時に日本のプロレスのイズムが脈々と受け継がれているのだ。 マクマホンに敬意を払うトランプさんが、その源流を創設したと言ってよい日本をないがしろにするわけがない。 まして、トランプさんが絶大な信頼を置く元海兵隊大将のマティスさんは、日本の自衛隊を心底リスペクトしている。 この人が国防長官である限り、日米同盟にはかつてない盤石な体制が築かれるだろう。

WWEを観ていれば、日本に対する突然の豹変ぶりはまったく不思議でない。 トランプさんにとって、安倍政権はひとまずベビーフェイス(善玉)の役割なのだ。 何たって悪の役回りには、自称“イスラム国”・イラン・中国・北朝鮮など、ごっついのが揃っているので、当面はこのまま推移すると思われる。 大統領自ら悪役を買って出ているのも、もろマクマホンの影響といえる。 意外でもトランプさんの素顔は、おそろしくシャイなはずである。
ともかく、いちゃもんに近い要求を突き付けて、問題は全て白日の下にさらし、抗争を繰り広げながら収拾、っていうか一つのストーリーを完結させていくのがWWEの手法であり、終わったと思った瞬間、意表を突く裏切り(プランB)等が発生して、間髪入れず新たな物語が紡がれていくのである。

迷惑な話である。 し51rucATHFqL._SX341_BO1,204,203,200_かし、仕方がない。
こうなれば、日本の閣僚もトランプさんに倣って見直し、日本のプロレス業界から人選されてはいかがだろう。 その際は特例として、警察庁長官に佐山聡を、文部科学大臣には前田日明(そういえば少し前まで馳浩だったが)を推したい。 さらに欲張ればホワイトハウスの報道官みたいな役割を作って、ターザン山本も任命したい。 オフレコが通じないうえ主観的に過ぎ、すぐに解任される危険はあるが、“事実”よりも“真実”にこだわる姿勢は、なにも本質を伝えないジャーナリズムに一石を投じてくれるはずである。
防衛大臣は、やっぱ田母神さんだな。 その頃には憲法第9条が改正され、「国防大臣」の肩書に変わっているのが好ましい。
総理大臣は変更なしで。 どうしても任期なんかでうるさく言われるなら、メドヴェージェフとプーチンみたく、菅さんを総理大臣・安倍さんを官房長官で一期やってもらって、時期がきたら入れ替わると言う手もある。 どうだ、「君の名は。」も真っ青な手法であろう、知らないけど。 やっぱ長期政権でなくちゃ、世界の中心で叫べないと思うぞ。

まだ続けたい気もするが、とくに3月は、日韓合同軍事演習がそのまま本番に移行する可能性があるとの青山繁晴さん情報もあり、僕らの世代にとって初めて、動乱の危機が身近に迫っている。 正男くんの死も、そもそも死んでいるのかさえ多分に疑わしく、弟が指示した結果と断じるのは、未だ早計の気持ちがぬぐえない。

今の世の、夢か、現(うつつ)か。

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夢かうつつか

風邪ひいた。 一昨日熱が出て、昨日は平熱に近づいたので出勤したものの、運転中もクラクラとオエップ!が収まらず、一日が長かった。

昨夜は、静岡パルシェに勤める娘を清水駅まで迎えに行かなければならず(終バスが20時過ぎと早く、足がない)、それが21時を過ぎても連絡がないからメールすると、「ごめんなさい(T_T)お母さんには伝えていたのですが・・・(:_:)」 とかで、終電、つまり24時近くなるとのこと。 21歳にもなって孫の顔一つ父親に見せられない“たわけ”が、何ぬかしておるんじゃ! 「じゃお母さんに頼んで下さい」と冷たく返信し、帰宅するや否や、自室の万年床に倒れ込んだものだ。

今朝起きるのはつらかった。 浜松の建設会社には10時までに着かなければならず、しかしどんなに辛くとも朝は入浴し湯船で読書するため、これに1時間以上を割かなければならない。 ちなみに今朝は五味康祐(ごみやすすけ、1921年12月20日 – 1980年4月1日)の「薄桜記」という時代小説を読んでいて、ひさびさ目にする文豪の、物語の展開の力量は申すまでもなく、その日本語の豊饒さ・気品の高さにほれぼれしてしまったのだが、それはさてこそ。

今朝、浅い夢の繰り返しに現れたのは、いま話題の世界の要人ばかりであった。 ホモ疑惑の●ーチンさん(そういう目で見るとなるほどと思ってしまう)とか、突如トップに立っためちゃ頼もしいイギリスのメイ首相もいらした気がするが、主役は何と言ってもアメリカ大統領トランプさん。 現実の世界をWWE(World Wrestling Entertainment)プロレスに変貌させてしまった御大は、夢の中でも暴れておられた。

一時期、WWEにハマっていた。 エンターテイメントを全面に打ち出し、試合よりも各選手のマイク合戦や控室でのやり取りの方が長い。 レスラー一人ひとりに対して、その時々の抗争や恋愛ストーリーが緻密に描かれていて、台本があるとわかっちゃいても面白い。

たとえば昨年、けがから回復出来ずやむなく引退を強いられたダニエル・ブライアンなど、2012年に恋人役のAJ・リー(技に豊田真奈美テイストがあって好き❤ CM・パンクと結婚してしまった)と1000回記念放送においてリングで式を挙げるも、マクマホン会長によってAJがGMに任命されると、あっさり彼女から結婚を却下されてしまう。

日本人なら気の毒の極みみたいな場面で、「マヌケなブライアン」と会場中からチャントが起こって笑いものにされるあたり、シナリオどおりとはいえ国民気質の違いを知らされる。 かと思うと、同じWWE所属のブリー・ベラとはマジに付き合っていて、引退セレモニーで彼女がブライアンの勇気を称え抱擁するシーンなど、実に感動的であった。 おちゃらけと真摯が、どこまで計算されているのか不明だが、絶妙のバランスで築かれていくのだ。

そんな「マヌケなブライアン」も、新たな物語では権力者マクマフォン一家を敵に回し、様々な妨害工作を乗り越え、ついに団体のトップに立つ。 かと思ったら、ブライアンの友人と思われていた特別レフェリー・トリプルHの裏切りに会い、即チャンピオン・ベルトはく奪とか、なにしろ展開がエグイ。

判官びいきはアメリカも日本も変わらぬようで、体格に恵まれないブライアンが、権力と結託した強豪レスラーを打ち破っていく姿に共感が拡がる。

スゴイと思うのは、代表取締役会長兼最高経営責任者ビンス・マクマホン(通称:悪のオーナー)とそのファミリーで、とことん悪役に徹している。 娘のステファニー・マクマホンなど、レスラーの努力を一瞬にして踏みにじるホントいやな女で、出場のたび大ブーイングが浴びせられる。 ちなみに裏切り者のトリプルHは、ステファニーの婿である。 最近は観てないから役回りが代わっている可能性もなくはないが、たぶん彼らは独裁者を演じ続けている事だろう。
これだけ嫌われ者に徹する一族も、滅多にいるものではない。 ブーイングを浴び続けていい気分の人間などいない。 強靭なメンタルと割り切りが必要になる。 しかして、その目的は何か。 ビジネス・ファーストである。

トランプさんの就任早々、連日のムチャぶりも、WWEを通した目で見れば不思議でもなんでない。 最大権力者であるトランプさんは、今後もおそらく悪役に徹する。 理屈で通らない事も、WTO(世界貿易機関)協定によって一方的な関税を相手国にかけるなど出来ないことは百も承知で、公約したことは次々と仕掛けていく。 速い、速すぎる。 ウマイ、うますぎる。 かつてないハイ・スピードな展開に、全世界が幻惑されている。 しかし世界一の興業団体であり、常にアメリカ・ケーブルネットワークのトップが常態であるWWEに、一瞬の停滞も許されない。 この定義は、トランプ政権そのものと思えてくる。 (時間切れにつき、近々続きをやります)

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全体主義でも怖くない

12月24日(土)も21時を過ぎた頃。 いつもなら夜なべする、お仕事中毒な一人や二人残っていても不思議でない時間帯、クリスマス・イブのこの日に限っては、タカちゃんもダイちゃんも小さな子供の待つ我が家に早々帰宅し、事務所にはブログ作成にいそしむ僕ひとりがいる。

02464904_1クリスマスといって頭に浮かぶのは、故・野坂昭如さんの、たしか50年代に書かれた短編小説「マッチ売りの少女」。 劣悪な家庭環境から売春婦に身を落とし、梅毒に脳も体もおかされ、そうなってさえ他人に尽くすだけを歓びに生きる天使の如き薄幸の主人公が、凍える夜の路地に暖をとろうとなけなしのマッチに火を点け、誤って引火し灰になってしまうという、陰々滅滅たる話である。 死によってかえって浄化される彼女に、作者の優しい眼差しがあるから救われるのだけれど。 野坂さんの本はほとんどが絶版で、手に入れようにも作品は限られるが、もっと多くの世代に読まれて然るべき作家と、世の不条理を憂うる。 もっとも、主人公の少年が冒頭で野たれ死ぬアニメ映画「火垂るの墓」(原作:野坂昭如)に限っては、まして幼い節子が、兄ちゃんに見守られながら粗末な小屋の中で息を引き取る描写など、未だ正視出来るものではない。 兄妹をここまで非業の死に追い込んだ鬼畜米英の奴らには、原爆の二つや三つ、生物化学兵器詰め込んでお返ししたらどうかと、あぶない衝動にも駆られる。 もっとも「火垂るの墓」じたいは、あくまで作り話なんだけど。

ある日の出来事をつれづれなるままにしたためようと、例えば最近耳にした石野真子のデビュー曲「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/編曲: 鈴木茂 1978年)を取り上げる。 ちなみに石野真子のファンであったことは一度としてなく、そういえば真子ちゃんは1981年、長渕剛と結婚してすぐに離婚もしているのだが、その長渕がオールナイト・ニッポンの放送中、告白の体(てい)で自身のヒット曲「順子」のサビの部分を ♪お~、マコちゃん、君の名を呼べば ボクはせ~つない~よ~♪ と替え歌で歌うのが、拓郎が浅田美代子と一緒になった時の後追い二番煎じみたくて、どこか情けなく感じたのをいま思い出した。 それはさてこそ。

今どき「狼なmako1_2んか怖くない」をご存知の諸兄がどれほどおられるか定かでないが、何ゆえこの歌で泣くほど感激せにゃならんのか我ながら不思議で、それは失われた若さへの憧憬の如きものであろうかと自問すれば、一日も早い孫の誕生(その予定はないのだが)を祈念し、「おじいちゃん」と呼ばれたい僕にとって若さがナンボのもんじゃい!なのであって、では他に何があったのか突き詰め考えれば、真子ちゃんの、とりたてて誇るに値しない歌唱力やルックスであっても、唄う事に対する一途な健気さに、打たれてしまったということになろうか。

恐らくは相当なレッスンが繰り返され、それでもかなりな不安の残る中、レコーディング当日を迎えた末の一曲であったろうと、推察する。どこまでも頼りなげで、音程も微妙に揺れ続ける彼女の声に、曲の完成にあらん限り傾注する関係者の意志が乗り移っているよう感じられて、だからその健気さは真子ちゃん個人というよりも、一つの目標に向かう大勢の人々の濃厚な気配、呼気のようなものなのかもしれない。

年末、SMAPが解散する。 実質は26日特番以降、新たな活動も放送もないのだから、ユニットとしてはすでに終わっている。 真子ちゃん以上に興味の対象外にあるものの、そして両者の間にはアイドルという以外に共通項など無いような気もするのだけれど、真子ちゃんとその関係者が一曲にかけるひたむきさの対極に位置するように、彼らの“店じまい”を感じてしまう。

前者からは、素材や環境に制約はあるにしろ、能う限りの最善をだれもが目指したことが伝わるのに対し、2016年に歴史を閉じる後者からは、当事者・事務所・メディア・ファンともに、破壊や荒廃の気配しか感じられずにいる。 それはなぜか。 知られている事実、隠されている事情を含め、全てがあまりに整理されないままむき出しとなり、本来がSMAPという完成された作品として提供されなければならないものの質を、著しく低下させたためではなかろうか。

SMAPの決断には、戦後アメリカによって持ち込まれた個人主義の末路が暗示されている。
アイドルとはすなわち虚飾であり、それがSMAPほどの大きな存在ともなれば、自らを犠牲にしても時代が欲する限り、象徴として存続しなければならない義務を負っていたはずだろう。 脳こうそく発症以降、歩行すら困難な西城秀樹がステージに立とうとするのが、決して私的理由のみからでないように。
百歩譲って解散するにしても、彼らに共同幻想を抱いた数多くのファンに対し、しっかりとけじめをつけなければならなかったはずである。 それが最低限の礼儀であり、トップとしての矜持というものだろう。

SMAP5人の意識が個人中心へと向かい、事務所は自社のタレントを制御できず、メディアは誰の得にもならない虚実ないまぜな報道にいそしみ、ファンはひたすら「やめないで」の懇願を繰り返す。 そこには、かつてキャンディーズの解散において創造された自己犠牲の“高み”など、薬にしたくともない。
1977年、ランちゃんが「普通の女の子に戻りたい!」と突然の解散宣言をしたとき、それは当時として究極のわがままであったはずが、ファンは思いをそのままに受け止め、事務所・メディアを巻き込み、彼女たちも他者のために自らの青春(!)を捧ぐべく、三位一体の共犯関係のなか巨大なモニュメントが打ち立てられた。 同時代のファンにとって、1978年(昭和53年)4月4日の後楽園球場「ファイナルカーニバル」は、不滅の記憶として今も鮮明に生き続けているはずだ。

SMAPと、キャンディーズや石野真子を分かつものは何か。 彼らは売れることを宿命にした商品である点で一致するものの、それでも自身が何のため、誰のために存在するのか、意識にまで上がらなくとも肚に抱いた、覚悟と実践に違いがある。 前者が最後に「個人」を選択したのに対し、後者は身を供すことも厭わず「他者」のため、全身全霊を捧げたのだ。 だからマコちゃんのたわいもないデビュー曲にうるっとくるし、ミキちゃんの解散が近づくほどに神々しくなっていく声に落涙する。

つれづれなるままに思い返せば、10数年前ホリエモン(堀江貴文氏)が世にデビューし、「会社は株主のためにある」と公言して以降、日本では本当は馴染めないはずの徹底した功利主義・個人主義に傾いて行ったような気がしてならない。 それはビジネスにおいて極めて当たり前の事実であって、でもそれをそのまま是認することは奴隷制を敷くに等しいよう感じられもして、不愉快でならなかった。 今もそれは変わらない。

価値観の多様化といえば聞こえはいいが、物や情報が圧倒的に増えただけで、そんなに多様化している気配は感じない。 たとえば通勤電車の中でスマホをいじらない人の方が珍しいくらい、新聞を器用に八つにたたんで読みふけるオジサンは絶滅危惧種になりかけている。 若い人の容姿を含め、多様化よりも、世の中むしろ画一化に進んでいる気さえしてしまう。

全体主義は悪で、個人主義こそ尊い。 僕も含め、戦後GHQ占領下にこうしたすりこみが行われてきた感は否めない。 共産主義に代表される一局集中体制は忌むべきものだが、徹底した個人主義(トランプさんのアメリカ・ファーストを含める)も、僕たちにはすわりが悪い。 3.11の夜、海外のマスコミがこぞって驚嘆した譲り合いの精神が、僕たちのDNAにまぎれもなく埋め込まれているのだ。 個人主義を優先したSMAPは、たぶん時と共に風化していく運命にあるよう思う。

そういえば、彼らが最後に歌ったのは大ヒット曲「世界に一つだけの花」。 一人一人が違うのだから誰もが存在する理由があるとする人生の応援歌。 いい歌だと思うが、それだけ。 全体と個人の、バランスこそ大切なのにと思ってしまう。

まったく関係ないが、小川美潮さんの歌うチャクラの「まだ」を久々に聴いたら、止めどなく涙してしまった。 美潮さん作の歌詞は、二人きりになってしまったチャクラの終焉に際し、ギタリスト文さんに送るラストメッセージのよう聞こえる。 それにしても、すべては正しいまちがいなの とは、何と滋味あふれる言葉なんだろう。 チャクラこそは取り返せない過去の、心に灯る憧憬なのかもしれない。

つれづれなるままに夜は更け、そしてはばたく。

nanyoudeyoisyo-lなにもかもが いつも奇跡のように うまくめぐることはないのね

ただみんなが笑ったり悲しんだり 何度もくり返す

どんな人も心の中は自由で 小さな羽根がかがやいているの

ただ自分のことばかり考えるときは なぜだか素直にはなれない

思い出す 小さなわたしを しまいこんで ウソをつくのよ

外が暗くなれば さびしくなるし かんちがいの恋もしてしまう

でもすべては正しいまちがいなの だれだってだれかに愛されたい

時が経って元気になったら 笑いながらどこかで会おう

胸の中はグラグラゆれてる わたしたちまだ未完成

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