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突じょ時間が無くなった

DSC04826_900p昨日(11月25日)のシュリッペンバッハ・トリオは素晴らしかった。 っていうより、エヴァン・パーカーが圧倒的だった。 ジジイ3人組のライブの感想を書きまくったろうと思っていたところ、立て続けに野暮用が入り、身動き取れない。

無念。

だから、こ・れ・ま・で(三井比佐子「デンジャラス・ゾーン」風に)

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深い人の音楽 続き

アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ トリオのチケットを買いに行く。 早くしないと売り切れてしまうという焦りからだ(ウソ)。 販売しているのは、静岡いちばんの繁華街に位置する一軒のみ。 車で行くと停める場所に苦労する、逆に不便な場所なのだが仕方ない。 本屋とCD屋、文具と喫茶が同じスペースに共存するこジャレて広めのフロアで、レジは一か所しかない。 ここで売っているんだろう。 長い髪のおねえさんが受付に立っている。

evan-parker-alexander-von-schlippenbach-paul-lovens-ff668f94-2c58-4883-a3d9-6728d573f7efいきなりシュリッペンバッハ御大の名を口にするのも、何となくはばかれる。
「11月25日の青嶋ホールのチケット欲しいんですけどぉ」などと、まずは軽めのジャブで様子をうかがう。 「何のライブでしょうか」 チッ、にぶいネェちゃんだぜ。 こいつぁいよいよご隠居の印籠の威力、見せつけるしかあるまい。
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ! トリオです」 するとネェちゃん、怪訝な顔で引き出しの中からチケットを取り出し、めくり始める。 何だよ、これだけの高名を耳にしておいてパッと取り出すくらいの器量、ないもんかね。

「すみません、ウチでは扱っていないんですけど…」
全然すまなくなどなさそうに、そうほざいたもんだ。
はぁ? 何だって? コヤツ共産主義国家のスパイか。 フリー・ミュージックが我が祖国に広まることを、全力で阻止する企ててでもあるのか。 たしかに情報統制社会とは、真逆に位置する音楽ではある。 あらかじめ定められた何もの(音符・メロディ・リズムとか)にも頼らず、瞬間瞬間その場で創造行為を繰り広げる、まさに命を削るパッとしたチョホーマンスなのだ。

「ここで売っているって、チラシの案内に出ているんだけど」
すると無言で、再び違う引き出しを探り始める。 「あっ、ありました。 申し訳ありません。 4,000円になります」
申し訳なさそうな素振りなどおくびにも出さず、清算を始めたものだ。 本来であれば「責任者出てこい!」くらいの失策ではあろう。 しかしそこはオレ、好い人(続・夕日のガンマン)。 笑顔で頷き了解の意を示す。 物事は常に、いい方向で捉えたいものだ。

きっとこちらが、ファースト・コンタクトを誤っただけなのだ。
考えてみれば、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハは私にとっても伝説のミュージシャンだ。 二十歳を過ぎたかそこいらのお嬢さんが分からずとも、責めるのは酷というものかもしれない。 もう一度最初からやり直せるなら、「エヴァン・パーカーが共演するライブなんですが」と、優しく話しかけることだろう。 するとさすが曲者のき奴も破顔一笑、「サーキュレートブレージング奏法のエヴァン・パーカーですね。 私もチケット、ゲットしたんですよぉ! INCUSのアルバム「At The Finger Palace 」、昔から愛聴盤なんですぅ」くらいの会話は可能だったはずなのに。 しくじったなぁ。
ま、何はともあれ、売り場のネェちゃんの今後に、幸多きことを。

Y308494007う一つ、9月28日はラトル指揮ロンドン交響楽団の演奏会にも行ったんだっけ。
こっちは… なあんかなぁ・・・  一流の板前が盛った刺身料理の味わいとでもいうか。 どの肴も超新鮮で、脂がのって分厚さも十分。 豪快な量に見た目のインパクトも申し分ない。
でも、所詮は完成品をポンと目の前に置かれた印象を拭いきれず、音楽が今この瞬間生まれてくるという、次に何が来るかわからないスリリングさからは縁遠かった気がする。
ピチピチとはねる魚をまな板に載せ、首筋からトンと降ろす包丁一閃、痛みを覚えるヒマもなく命を奪う調理人のわざの冴え、味わいたかったのはソレなのに。

あまりに予定調和に過ぎるというか、マーラー9番白眉のはずのフィナーレに向かうほど、醒めてきちゃった。 会場自体は終演後、熱狂的な拍手が鳴り止まなかったから満足できた人が殆んどだったんだろう。 珍しく、最初のカーテンコールで席を立ってしまった。

感性が衰えたためだろうか。 間違いなく、その要素はある。

昔はオーケストラを、音のかたまりとして聴いていた。 今では複雑な楽器個々の音の連なりも、ちゃんと聴き分ける術が身に着いている。 鑑賞の技術としては向上しているはずが、一方で波のように押し寄せる音塊に身を委ねた、かつての素朴で圧倒的な感動からは遠のいてしまった。 自室で、FMからPCに録った音源を聴く分には充分満足なのだが。

っていうか最近では、RadikoolというソフトからWAV方式(ビットレート512K、サンプルレート48,000に設定)で録っておいて、可逆性圧縮方式のFLACに変換する技を知り、これがCDのリッピングよりはるかに“いい音”なもんだからご機嫌なのである。 しょぼいはずの日本の地方オケのライブ音源が、生のロンドン響よりはるかに豊かに響くんだからスゴイ。 お金が全然かからないのが、更に凄い。

41ipFi3mpjL._SY355_今度の土曜日は、サントリホールでメナヘム・プレスラーか。 楽しみにしていたところ、演奏会中止のお報せメールが入る。

でも、これはまぁ、しょうがないか。 今年12月で95歳になるジイチャンが、昨年に続いて日本に来る気概を見せてくれた、つかの間の夢にだけでも感謝せねば。 ジイチャン、長生きしてね。 って、十分生きてるわな。

「月の光」ってタイトルのフランス小品集のCDで、満足するとしよう。 いいよお、コレ。

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深い人の音楽

生演奏を聴く機会などめっきり減っていたが、今月から11月にかけて、楽しみなライブが目白押しである。

まずは去る9月2日(A-258118-1368064283-6787.jpeg日)、静岡グランシップでスティーヴ・ガッド・バンドを観た。
1945年4月生まれの73歳。 伝説のスタジオ・ミュージシャンであり、70~80年代、世界を席巻した 「スタッフ」のメンバーだった人だ。

実は金を払ってまで行く気など毛頭なかったわけだが、このグランシップというどデカイ会場、(我が業界)組合で日常管理している関係からご招待を頂き、ならばと出かけたわけだ。

はっきり言って、「スタッフ」などという“軟弱”ヒュージョン・バンドに、今も昔も興味はない。 実さい今回のライブでも、どうしたらこんなに退屈な作品が書けるんだろう(あくまで個人の感想です)と感心するくらい、つまんねんとっほな曲のオンパレードだった。 ところが演奏は、素ん晴らごいの一言なのである。

この人のドラムは、どれほど激しく叩こうが決してうるさくならない。 うるさくないドラマーというのは稀有の存在であって、弱音から最強音に至る無数の階層が完璧にコントロールされていなければ、即座に自己主張が頭をもたげてしまう。 そしてちょっとでも「オレが」が剥き出しとなった瞬間、その不純物が聞く側に伝わってしまうという、実は繊細極まりない楽器であることを初めて教えられた。 すごいぞ、73歳。 バンドの完成度も中々のモノだが、トランペットだけは頂けない。 とくにつまんない人が吹くコルネットほど退屈なものもなく、人選にはも少し厳格であってほしい。 ま、ただ見の客にどこまで言う権利があるか、わからんが。

482ae380bdff59260decc71926ef4abb今月は28日(土)、横浜みなとみらいホールにおいて、サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団の演奏会もある。 曲はマーラーの交響曲第9番。 30年以上昔、バーンスタイン指揮イスラエル・フィルで聴いて以来の生演奏だ。

ちなみにこの時のバースタイン、全然印象に残っていない。 意外にも、朝比奈隆が在京のオーケストラ(確か日フィルだったような…)を指揮したコンサートの方が、がぜん忘れられずいる。
一緒に行った吉田さんは、第4楽章になると東京文化会館2階最前列の手摺に突っ伏し、嗚咽を始めたほどだ。 彼に言わせると「死んでたまるか、死んでたまるか」と、最後まで抵抗し続ける音楽だったそうな。 確かに嗚咽や号泣というより、咆哮という表現がぴったりくる解釈だった。

ラトルを好きになったのはここ数年。 バーミンガム市交響楽団のマラ7(マーラー交響曲第7番「夜の歌」)のCDに接してからだ。
いろいろ評価は分かれているが、複雑極まりないこの難曲をダイナミックレンジいっぱいに取りながら、破たんなく表現しつくした技量に舌を巻く。 常任を務めたベルリン・フィルとの記録はもちろん凄いが、自国に戻ったこのオーケストラとの共演は楽しみだ。 安くない席だけど、こっちはちゃんと買ったぞ。

10月13日は、ピア201805080065_exニストのメナヘム・プレスラーがやってくる。
前にブログで触れたが、昨年10月に93歳という高齢で来日し、そのリサイタルの模様はテレビで一部放映され、FMで聴きもした。 とくに「月の光」の、この世の人間の演奏と思えぬ超然とした表現に圧倒された。

よもやこの時、再来日などあるまいと、聴き逃した身の不運を嘆いたわけだ。 ところが、今年4月から天照大御神(あまてらすのおおみかみ)に仕えるようになった我れに天が恩賞を与えたもうか、ジイサン1回こっきりの演奏会に来やがんの。 サントリー・ホールで音もいいぞ。 共演はマティアス・ゲルネさんとやらで、シューマンの歌曲集「詩人の恋」。 そしてピアノ・ソロで、同じくシューマンの「子供の情景」。 キャ~、「トロイメライ」なのよぉ。 さらに老いてさらにコク深く、技巧などというレベルを超越した音楽が聴けること、疑いなし。 天照さん、ありがとう。 ジイサン、どうかご無事で。

もうこのくらいで充分お腹いっぱいのはずが、トリは11月25日にやってくる。
まさか静岡で、まさか56歳になって初めて邂逅することになるピアニストの名は、

アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ!jazz14_schlippenbach_litebox

大事なことなのでもう一度言います。

アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ!!

しかも共演は、サックスのエヴァン・パーカーポール・リットンのドラムだって。 アボレベレベ!
ほんとマジで、日本に生まれて、静岡に移り住んで良かったぁと、心の底から思いましたもん。 アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハなんて、二宮金次郎くらい伝説の存在と思っておりました。 しかも我が青春のエヴァン・パーカーを、再びナマで聴ける日が来るなんて。

実はスティーヴ・ガッドに行かなければ、このライブの存在は知らずに終わっていたはずだ。 会場入り口で渡されたパンフレットに、A5の小さなチラシが入っていたのだ。 この後ネットで検索しても、彼らの来日は全然引っかからなかった。 ここが唯一のタイミングだったわけだ。

どう贔屓目に見たって、今どきヨーロッパ・フリーミュージックを企画する奇特な人が、日本に数人といるはずはない。 “こんなの”有り難がる静岡県民が生息しているとは、とうてい信じられない。 場所は青嶋ホール。 以前、左手のピアニストとなった舘野泉さんのリサイタルに行った、とっても小さな個人の会場。 これを奇跡と言わず、何としようか。

天照大御神さま! 伊勢神明社はこれから3年、総代のワタクシがちゃんと管理させてもらいますね。 皇紀2678年、バンザ~イ!

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グドゥマが来るよ~

7月は新卒者雇用のため、静岡市内の高校を回った。 ほとんどアポなしで訪問したのに、どの学校も丁寧に応対してくれたのはちょっと意外だった。 教師に対する先入観(もちろんマイナスな方)が、強すぎるせいかもしれない。

私立高は行く先々、爽やかな体育会系の男性教諭が面会に応じるケースがほとんどだ。 あまりに好感度が高く、そんなんで先公とさげすまれながらも虚勢を張り、校内暴力に対応できるのか不思議になる。 いまどき誰も威張んないし、直接的な暴力もないか。

対する公立の方はいかにも、っていうか昭和の雰囲気濃厚な、見てくれ構わぬ白髪交じりのオジサン先生(久美ちゃんが髪を切ってしまいたいと言っていた)や、やけにかわいらしい古典担当の女の先生(久美ちゃんによれば「絶対イジめられてる」)とか、千差万別でけっこう面白かった。 たまたまなのかもしれないが。

今年は求人倍率5倍の狭き門でdownload、「担当者が毎年来られているか、先輩がいて学生が情報を取れる会社か、なにより名前のある企業サンにどうしても偏りがちなもんですから…」申し訳なさそうに、来てもあまり脈がないよと臭わせる。
ま、それは覚悟のうえであって、でも中には違う動機から当社を見てみたいという、奇特な学生さんがいるかもしれない。 諦めず、夏休み明けにもう一度回りますか。

そう思っていたらちらほら反応が現れて、明日(8月2日)は女子学生1名が、会社見学に来ると言う。 迎えるこちらも初めてだから、どんなふうに向かえたらいいか、ちょっと思案のしどころである。
本音で言うなら「就職するより子供生め!」と勧めたいところ、今どきは人類普遍の正論であっても差別や暴論と的外れな攻撃を受ける羽目に陥るから、慎重に言葉を選ばなければならない。 何たって、家族に関する質問はダメ、尊敬する人物を聞いちゃダメ、愛読書が何か聞いちゃダメっていう、厚労省サマからのご通達がある。 アホくさ。 黙ってにらめっこでもしてろってか。

ならば「大激闘マッドポリス’80」第7話など鑑賞してもらい、感想文を書かせるというのはどうだろう。 別にそれが、1話でも16話でも構わないのだが。
「10秒に一発撃ち、一分にひとりの犯人が死ぬ」がキャッチフレーズの、トンデモ刑事ドラマである。

DdU98z8V0AAfHT_1980年代、日本の暴力団は幾多の内部抗争と政治との黒い癒着の末、全国統一を成し遂げ、さらに海外のマフィアと手を結び日本全土を制覇する巨大な犯罪組織を形成した。 ジャパンマフィアの誕生である。
警察庁はこの巨大組織の壊滅を目的とし、選りすぐりの精鋭部隊を編成、戦いを挑んだ。この部隊の唯一の目的はジャパンマフィアの壊滅であった。 恐れを知らぬ彼らの行動を、組織は<MP>すなわち<マッドポリス=命知らずの警官>と呼んで恐れおののいた。

もう、オープニングのナレーションからしてぶっ飛んでいる。 ジャパンマフィアなどという広域組織の統合は数年前の山口組を予見させるし、政財界との癒着も半端なく、こちらは中国の浸食をイメージさせる。 マッドポリスなどとカタカナ英語はやめて、「キチガイ刑事」とか、放送禁止用語も堂々無視したタイトルにしてくれれば最高だったのに。

マッドポリスの7人は命知らずであるにとどまらず、生け捕りにした捕虜は必ず拷問にかけ、半殺しにしたうえ自白を強要する。 その際、火あぶり水攻めは常套手段、とても正義の味方とは思えない。 「言えば殺される!」などの抗弁にも一切耳を貸さず、自白した事を承知の相手側に、わざわざ引き渡すまでする。 まさに鬼畜の所業である。
撃ち合いとなれば、背中を向けて逃げ出す犯人にまで容赦なく銃弾を浴びせ、とどめを刺す。 まこと人権意識の欠けらもない、中共によるチベット・ウィグルの弾圧を日本に置き換え可視化したような、ステキなドラマなのだ。

今どきの、暴力描写に馴れていないうぶな女子高生にこんな代物観せたら、どんな反応が返ってくるだろう。 私の知らない世界に出会えた!とでも思ってくれればしめたものだが、ま、入社をご遠慮されるのが関の山だろう。

ならば、資本主義・社会主義・共産主義の違いについてでも一席ぶつか。 けっこう会社のしくみを知るうえで、重要なポイントだと思うのだが。 一通り簡単に解説して、そのいずれにも肩入れしなければ、主義主張にはならないからセーフだろうし。

やっぱ「高嶺の花」とか「チア☆ダン」とか、放送中のドラマを話題にするのが無難か。 ひとつ問題は、出演者もストーリーも全然知らないという点にあるが、そこは想像の力を借りて、なんとかこなそうではないか。

「高嶺の花」なら、きっと極端な格差と圧政にあえぐ中国内陸部が舞台で、当局の弾圧をくぐりぬけながらとても手に入ると思えない自由を獲得しようと暗躍する、石原さとみの物語だろう。

「チア☆ダン」は今トレンドの、LGBTがらみのストーリーに違いない。 チア男子の主人公を主軸に、「生産性」のない人々による恋のさや当てが展開され、クライマックスは国会前でのデモから内ゲバに発展し、壮絶なカタストロフを迎えるのだろう。 違うか。

ダメだ。 手練0541040852424E726A0A42634CBD2EE8れの女子高生を相手にするなど、僕には百年早いかもしれない。 やはりここは吾妻ひでお風に、「じょんじょんじょんじょこじょしこーせー」と脱力しながら歌うしか、術はないのかもしれない。

じゃないかもしれない。

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お前は呪文を唱へる

慢性的に人が集まらない。 一方で在職者は、順番に齢をとっていく。
僕だって今月中旬で、56歳になる。 会社経営と体調管理が順調にいけば、定年まであと9年の猶予はある。 ただし残された年月は、感覚的に極めて短く過ぎるはずだ。 すでに入社から24年経っていて、それが長い時間だったとはまるで感じられないからだ。

子育てはすでに終わっているし、仕事を順当に次世代へとバトンタッチできれば、人の一生としてまずまず合格点と言えるだろう。 なぜか存在の気配すら感じない、孫(個人的な予定では双子の姉妹)のお守りという、大事業は控えているにしろ。
あと、ひ孫(個人的な予定では双子の姉妹)を我が腕に抱く、野望の灯は未だ衰えを知らぬにしろ。

我が社は社長と特掃の剛クン以外、全て中途採用である。 昨年12月に役員となった二代目・淳専務でさえ、入社してまる7年が経過したばかりだ。 さいきん本社に入った面々も、30代の働き盛りばかり。 ウチにはじっくり時間をかけて稼業に馴染んでいく、生え抜きがいない。

そこで初めて、新卒採用に踏み切ることにした。
偶然グループ企業の役員が新卒者を検討していて、さしあたってアミューズメント企業の採用担当者に話しを聞くという。 同行させてもらったのが3月の半ば、もともと不人気業界ではあるが、それを言うなら若者にとって、ウチは更に厳しい採用環境となる。

いろいろ聞き進むに従い、ゲンナリしてくる。 これでもかというくらいの高待遇なのだ。
初任給27万円、残業は月2時間平均。 寮はレオパレスで、当然一室ずつを完備。 研修先はエクシブで、奨学金返済制度があって、対象者には180万円まで補助するんだとか。
それで求職者が殺到するかといえば現実は逆で、企業説明会やネット関係につぎ込む額は2千万円半ばに達し、しかし採用にこぎつけるのは10名程度でしかない。
「入社してくれたら(トヨタの)アクア1台プレゼント、その方がよっぽど手間なしでイイんだけど」などとこぼす体たらくだ。 これでは、ノウハウも使える金もほとんどないウチのような零細企業にとって、新卒採用などは夢のまた夢ではないか。

そんな折、新卒対応のコンサル会社代表が、紹介者を介し挨拶にやってきた。 30歳なりたての、若き経営者だ。 後から知ったが、父親が僕と同い齢だという。 話を聞けば、斬新なアイデアが次々と披露される。 僕のようなアナクロでは、とても太刀打ちできない。
株式会社ナナクレマのクミちゃん・こと武友久美氏と、新卒採用に向け動くこととなった。

まず採用の対象であるが、今年度に高校を卒業する学生2名と決めた。 ある程度分別ある大学生よりも、どうせ自分が手取り足取り面倒見るなら、仕事の意味すらはっきりしない、10代の方が良い。

31KluT5nBkLそこでクミちゃん、高校生に興味を持ってもらうツールとして、ツィッターを始めろと言う。 えーっ、月に1回の会社のブログだって遅れがちなのに、っていうより本社の奴ら、今や僕のほか2名を除き誰も更新しない体たらくなのに、頻繁に呟かなきゃならないツィッターなんて、ちょっと無理じゃね?

などと、最初から弱音を吐いていてはいい結果など生まれない。 5月9日から、手探りで呟き始める。 いま読み返すに・・・ クサい。 どうもこういうの、軽いテンポでやれないんだよな。 高校生を意識して、仕事をテーマにして、などとクミちゃんからのご指定もあり、霜田誠二「うんこのおまんじゅう」の深ーい歌詞の披露がとても適わないなどの、不自由も多い。 禅問答に似た「おじいさん遊び」の真髄も、今野雄二にゃ、もとい高校生には、もとい誰にもわかるまい。

7月5日現在、フォロワー数がようやく18になった。 「わたしだって200はあるけど」などと自分の娘が小バカにするが、クミちゃん言うには50くらいになると、爆発的に拡がるんだとか。 そんなモンなのか。 ともかく日に1回以上、呟くことを自らに課している。

ちなみにツイートには1回140字の制限があり、終わりが近づくとあと○字の表示が出る。 百田尚樹氏もおっしゃっていたが、1ツイートの字数は必ず使い切る、つまり0表示で終わらせないと気が済まない癖が僕にもあって、たいがいは最初の文章が長くなりがちだから改めて文章を組み直すことになる。 毎日それっぽい事考えて、文章にして、140字に収めるというのは、思考にとっていいトレーニングになる。 まだ始めて2ヶ月足らず、このまま続けていけるのか、いまいち自信はないが。

https://twitter.com/2018ouendanchou

クミちゃんはもう一つ、アカウントを用意した。 相互に「いいね」したりの自作自演が目的だったような気もするが、最初の頃は政治的な話題をつぶやいたりしていて、「そういうのはコッチの方で専門にやって下さい」と指示された。

zyan10753https://twitter.com/5yS9jilgJilcdtK

今では毎日、YouTubeにアップされている膨大な音源から一曲を取り上げ、コメントを添えるようにしている。 当然、個人的な好みが反映されるわけだが、聴けばきっと人生が豊かになる、それでいてあまり知られていない名曲の数々であると自負する。 「死ね死ね団のテーマ」以外に反応は皆無であるが、本音ではこっちの方にこそ傾注している。 ぜひお勧めに接し、良ければ「いいね」をしてくだされ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm18519557

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続・パッとしたチョホーマンス

仕事や家庭、自分のために、命を懸けた経験なんて僕にはない。 命を賭してまで守りたい、ポリシーもない。
不幸なのか幸いであったかわからないが、もうすぐ56年になる人生を、そこまでせっぱつまることなく過ごしてきた。

今後、このまま平穏に人生が終わる保証などあるはずがない。 それを望んでいるとも、言いきれない。
だからと今さら死ぬほど大変な思いをしたいなどと、言うつもりもない。
せっかく一度の人生なのだから、様々な喜怒哀楽を味わってみたい、とは思う。

その際、質は重要である。
「オレは仕事に命を懸けてるんだぁ~!」などとお手軽にキレる御仁を相手にしても、ひたすら不快で浅薄な感情しか残さない。
どうせならもっとどす黒い、hato権謀術数・奸智術策の渦中に投げ込まれるとか、そこにおいては一方的な被害者の立場じゃなくて、手練れの連中相手に知力の限りを尽くし、真っ向勝負を仕掛けてみたいものだ。 ちょうど迫りくる米朝会談に向けて繰り広げられる、壮絶な駆け引きのように。 ま、僕如きが、百戦錬磨の知恵者と対決などとは、想像するにもおこがましい限りだが。

世界を動かすトップ3(トランプ・プーチン)と海外で評価される今の総理大臣を、劣化著しいメディアと歴代最悪の6野党が、こき下ろすためのネタ探しに日々躍起となっている。 これも今の日本が平和だから通用する戯れ言に過ぎず、しかしその“平和”も、砂上の楼閣に過ぎないことが判然として来た。 沖縄を“自国の領土”と公言し憚らない大国が、日本の隣に現前としてあるのだ。

沖縄県石垣市の尖閣諸島沖で24日、中国海警局の「海警」4隻が日本の領海に侵入し、約2時間航行した。尖閣諸島沖での中国公船の領海侵入は18日以来で、今年10回目。
 第11管区海上保安本部(那覇市)によると、海警「2101」「2307」「2401」「33115」が午前10時~同15分ごろ、魚釣島西南西の領海に侵入。同11時45分~正午ごろ、南小島南で領海を出た。(2018/05/24-13:41 jiji.com)

今年3月、中国海警局は人民武装警察部隊(武警)に編入され、軍の指揮下に置かれている。 つまり、純然たる軍事組織が日常的に領海を侵犯しているということだ。 モリカケもTOKIOも、日大アメフトも比較にならないはずの国家の一大事に、国民にまったく周知されない所で、「命を懸けた」海上保安庁の苦闘が日々展開されている。 彼らには、相手が攻撃してくるまで一切手出しならぬとの、専守防衛・憲法第9条の縛りがある。 それを見透かした中国側の挑発・嫌がらせに耐え続けなければならない最前線の皆さん、常に命の危険にさらされ続けるその心労たるや、いかばかりのものだろうか。

「命を懸ける」にも、内的要求からそうする不屈の闘志もいれば、外的要因から、時に命まで懸けざるを得ない局面に立たされる人もいるだろう。

前者であれば、人として立派としかこれは言いようがない。 「金も名誉も、命もいらぬ」そう公言し実践もされている方に、一昨年、生まれて初めて選挙に出向き、投票した。 今も講演会やネットを通じ、積極的に発信をされておられるが、その徹底した裏取りと落とし込みから、情報の信憑性と説得力は極めて高い。 しかしこのような超人は例外的存在であり、ご本人は生を心から謳歌し、同じほどに苦しんでもおられるようだが、自分が真似したいとは露ほど思わない(出来るはずもないが)。

いつものことだが、話を広げ過ぎた。
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「命を懸ける」とは、過日観たエフゲニー・ムラヴィンスキー(1903年6月4日 – 1988年1月19日)の指揮姿から浮かんできた言葉だ。 曲はショスタコーヴィチ「交響曲第5番」。 1937年11月、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー・アカデミー管弦楽団によって初演された。 知名度という点からすれば、作曲者の代表曲である。 今ではYouubeで、いつでも鑑賞可能な映像だ。

では、当時80歳のムラヴィンスキーが、鬼気迫る表情や仕草で音楽を創造していくかといえば、さにあらずんや。 うける印象はむしろ、冷静沈着そのもの。 冷徹と形容したくなるほどに、まるで顕微鏡をのぞき込む科学者のような泰然自若の佇まいである。 そういえばこの指揮者は、楽譜をしっかりたどりながらオーケストラの面々に指示を送っている。 現代であれば暗譜が常識のところ、まして自家薬籠中の作品をリハーサルでならまだしも、本番においてさえその姿勢は変わらない。 作品の深淵にまで入り込まんとし、そこに散らばる思想・心情・情報の断片までを、すべて表現しつくさずにはおれない鋼の意志。

その故に、自らが興奮することは御法度となる。 この音符の意味するところは何か、このテンポでなければならない必然はあるのか。 常に作品に問い、瞬時に答えを導き出し、奏者へと伝え続ける。 しかもその伝達は常に正鵠を得たもの、正確無比なものでなけれならない。 60~80名からなる楽団員は、指揮者に全幅の信頼を置き、自らの卓越した技量と究極の“忖度”によって、抽象を現実の音へと変換する。 この、途方もない創造行為、何という苦役。

そこから表出される音楽は、超弩級だ。 ムラヴィンスキーにとって「命を懸ける」とは、作品に「傾注する」のと、ほぼ同義になるかもしれない。

20110703_981867ショスタコーヴィチは「交響曲第5番」初演の前の年、ソ連共産党中央委員会機関紙『プラウダ』によって批判されている。 オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が社会主義にとって有害であり、「荒唐無稽」との烙印を押されたのだ。 ちなみにこのオペラ、男女の交接(しかもレイプ!)シーンがもろに描かれるトンデモ作品で、並のAVより興奮させられること請け合いである。 80年以上昔に、しかもロシア人の手になる超過激不倫オペラが生まれていたのだ。 スターリンが激怒したというのも、無理からぬことかもしれない。

プラウダ批判は、当時のソ連に於いて死刑宣告にも等しい。 急がれる名誉回復のため作曲された交響曲の初演を、引き受けたのがムラヴィンスキーであった。 何かひとつしくじれば、演奏者にもヤバい状況が生まれて不思議はない。 作曲者にとっても指揮者にとっても、これこそ命を懸けたお披露目演奏だったと言える。 結果は大成功で、ショスタコーヴィチは粛清の危機を回避したのだった。

後にムラヴィンスキーは回顧している。 「若かったからできた」ことだと。 しかしそれは、政治的行為を指すものではない。 「交響曲第5番」という偉大な作品を世に知らしめる役目を、今だったら引き受けただろうかという畏れからである。 この人にとって音楽以外の俗界のことなどは、意に介さぬ些事だったに違いない。

来日したムラヴィンスキーに、主催者が当時はやりのジャケットを進呈したことがある。 ささやかなプレゼントを受け取った巨匠は、部屋にこもったきり、一日中姿を現さなかったという。 何か機嫌を損ねってしまったのでは・・・ その危惧は見事に外れ、神ともあがめられた大指揮者は贈り物を受けて感激のあまり、部屋の中でいつまでも泣き腫らしていたという。 こんなエピソードを知るにつけ、こちらの涙腺も緩んで仕方ない。 この人は、間違いなく生活不適応者だった。 世俗の欲望など皆無にして、表現行為には一切の妥協を許さない。 芸術家が真に偉大だった時代の、最後を飾る人物かもしれない。

いつまでも穢れぬ純白な心で、自ら偉大と認める音楽にのみ捧げた人生は、映像に残る姿だけで汲み尽くせない。 むしろ目を閉じ、音にのみ集中すべきである。 人間業をはるかに超えた世界が、瞼の裏側で果てしなく広がっていくはずだ。 そのとき僕たちは逆説的に、この卑小な日常を生きていかねばならないことに、絶望を感じてしまうかもしれない。 そのぐらいの、それは音楽だ。

命を懸けるとは、掛け替えのない一つの対象に対して、たった一度の人生を捧げるということなのか。

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パッとしたチョホーマンス

会社のブログだから、日々の仕事や社員の話でもつづっていくのが本来のスジだ。 ところが、生々しい事態や人物像をそのまま描写すれば明らかに差し障りが生じ、だからと事実をボカせばつまんないだけで、結局は関係ない時事ネタとかに終始してしまう。 20数年もこの稼業やっていると、実は面白い出会いが少なからずあるのだが、私的な場のネタとしてしか披露出来ない。 無念。

anger2今回も具体的なシチュエーションには触れないが、最近、取引先のある御仁から「オレはこの仕事に命賭けてんだぁ!」とキレられた。 いわゆる癇癪持ちのお方なのだろう。 怒りの気持ちを抑えられず、次々こみ上げる憤りに言動をコントロールできない状態になってしまうようだ。 この人と商談の都合から、直接会ったり間をおいて数度の電話を試みるも、数分もしないうちすぐにカッカし出して、僕や会社を口汚く罵り始める。 しかし語彙が限られているため、小学校低学年男子の「ウンコチンコ●ンコ」みたいな滑稽さばかりが際立ち、申し訳ないが真剣に取り合えなくなってしまう。

この齢になると、5af344917ba7e200b04050ad3238fc1b_600この手の人に何を言われてもあまり動揺はないが、まともに受け止めてしまう若い部下などは、お相手するうち病んでいきそうな気がする。 困ったもんなのだがそのままにも出来ず、結局は先方の上司に理由を説明し、直接やり取りさせてもらうことにした。 そのまま話していても、発展性ある話など望めそうにないからだ。 事を進めようという意志は感じられず、「ボクの事わかって~!大事にして~!」との主張が、屈折した形で表面化しているだけだと解釈している。

政治家の「命を懸けます!」などと紋切り型の演説を聞いた大概の人は、そこにチープで、実現の可能性ゼロの虚ろな響きだけを捉えるだろう。 懸ける対象や時期を明確にしないままいくら絶叫を繰り返しても、説得力など生まれるはずがない。 本当に命を懸けるなら、公約が守れなければいついつの段階で腹を切りますくらい、せめて次回の選挙に立候補しませんくらい、明言すべきだ。 こうした態度では、癇癪持ちの誰かさん同様、組織や有権者のためなどの姿勢は微塵も感じられず、おん身第一の姿勢から少しも抜けられていない気がする。 そうであれば心に響く公約など、望むべくもない。

直近でも、たとえば南北朝鮮の首脳会談で両者が初めて握手する瞬間をとらえ、「記事も書けないほど感動した」とこの茶番を称賛するメディアがあったり、「祖国統一に向けて大きな前進だ」「非核化に向けて両首脳が努力してくれた」などと、感動や期待の声が少なからず上がったりする。
当事国に限って言うなら、引き裂かれた同族に対して積年の思いも強かろうと、一定の理解は出来る。 ところが我が国では、何の罪もない同胞が数知れず拉致され、その事実が長年にわたって隠蔽されてきた。 自国民が飢え苦しむ惨状を省みず、自分や一族の利益にのみ執着し、叔父や義兄まで惨殺する恐怖政治を、日本のメディアや政治家はさんざん批難してきたはずだ。 それが今回の“やらせ”映像にコロッと騙され(もしくはだまされたふりをして)、南北統一の第一歩に深く思いをいたすべきと、主張する国会議員まで現れる始末だ。 この程度の演出で本当に魂が揺さぶられるのだとしたら、おめでたいとの思いを通り越して、少し羨ましくもある。 騙されたまま気付かず終わる人生ならば、捉えようによっては幸せといってもいいだろうから。 ただしここまでお花畑な思考回路は、政治的意図を抜きにしてあり得ない言動だと、同時に思いもする。

英ブックメーカー(賭け屋)のオッズによれば、今年のノーベル平和賞受賞者に文在寅大統領と金正恩朝鮮労働党委員長の両首脳が、1番人気となったそうだ。 どうやら人の世は古今東西の違いなく、誰もが表面に浮かぶ上澄みをすくうことだけに終始している。 その根幹とは、しょせんテレビに映ることごとは他人事であり、リアルに近いようで縁遠く、その印象から生じる無関心にある。

だからと、僕が本質的に物事をとらえ生きているなどとおこがましいことを言うつもりは、毛頭ない。 たとえば大型連休中、TOKIOという40代(!)アイドルグループの一員が、女子高生を自宅に呼んでむりやり“キス”したことで、他の4人が謝罪会見する様を、各民放局が延々垂れ流した。 TOKIOにまるで興味のない僕も、1時間半に及ぶこの中継を観た。

普通の感覚で会見を眺めれば、失礼ながら“キス”を強要しただけでなぜこうまで大騒ぎになるのかが、まず理解できない。 被害者の気持ちを考慮し、いや実際には事務所や芸能界という、メディアも共存共栄する村社会が、起きた結果を“キス”の段階に止めておこうとする以心伝心のようなものを、そこに感じてならないのだ。 むろん推量の域は一切出ないものの、彼らの謝罪の意味を、メンバーによる未成年者“強姦”と置き換えたとき初めて、非常に納得できる対応に映るはずだ。

185673cbf0be1dfe24e0c10c4562860b_originalそもそも今回の会見に、シナリオライターが存在するという説がある(水島聡氏【Front Japan 桜】5月3日ネット公開。TOKIO事件の報道されない真実)。 こうしたライターは別にウソの台詞を読ませるのではなく、会見する彼らの気持ちに寄り添って、効果的な言動になるよう磨きをかけるのだという。 どうした言い回しが好感度を上げるか、どのタイミングでどのくらいお辞儀をすれば良いか、事務所社長がメンバーを我が子と呼び彼らがその言葉に涙するマッチポンプなど、リハーサルを重ねた成果が、あの会見になるというのだ。 ボク的には、たいへん説得力ある見解である。

プロなのだから、練習を重ねた会見であっても非難される道理はない。 問題があるとすれば、観る側の我々があたかも打ち合わせなしに、フィルターもかからず彼らの心情が吐露されたと錯覚してしまうことで、それが南北朝鮮の首脳会談におけるファースト・コンタクトと、質的に何も変わらないことに気づかされる。 どこまでも空々しく、やがてうすら寒い。

いい大人が安直に「命を懸ける」ことなどあり得ないとして、日々「命を削る」思いで過ごしている人達は、確実に存在する。 政治家であれば、今の首相や官房長官など、まさしくこれに当てはまるだろう。
これだけひたむきに国益のため尽力され、大きな外交成果を上げている国の代表はかつてなく、同時に、これほど実態とかけ離れた理不尽な攻撃を受け続ける存在も、また稀有だろう。 ことに異常なマスメディアの連日のフェイクニュースによって、真っ当な人達がかえって際立つという、皮肉な功罪も生まれている。 野党による救いようのないパフォーマンスと、シナリオに則ったタレントの記者会見もまた、不毛の地に虚構の根を張る試みにおいて、同質と言えるかもしれない。

例によって、本題に入る前にそこそこの量になってしまった。 キーワードは「命を懸ける」であって、次回その主題に入ろうと思う。 でもちょっと時間が経つと、じゃないかもしれない。

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神々の黄昏

201709161437354月から伊勢新明社の総代を務める。 任期は3年。 これから毎月第一日曜日、および大晦日と元旦の朝は、祭事により確実にこちらの神社で過ごすこととなる。

問題は“伊勢新明社”がなんであるか、“総代”が何をするものなのか、全く知らないまま引き受けてしまった事である。
今の総代(70歳前後の方)からして、「僕も何にも分かんないままやって来ちゃったからね」、こうしろああしろなどと明言することは、とてもできないとおっしゃる。
ならば現総代に比してひよっこの僕ごときが、「伊勢新明社ってのはね」などと、グラス片手にうんちくを語れるほどあまい世界ではないはずだ。
きっと総代を勤め上げた3年後であれば、世界の謎も人が存在する理由もことごとく明らかとなり、悟りの境地が開かれている事だろう。 ケネディ暗殺の真実も、藤波が猪木の前で髪を切った時の心情も、我が家にyuriちゃん・sumireちゃんみたいな双子の孫がいない理由も、全て解き明かされているに違いない。
そう思って改めてみるに、現総代の、田舎の好々爺としか映らないその瞳の奥に、実は「全部知ってるよ」と無言に語りかけてくる涅槃の域が、垣間見えるようだ。 なんと畏れ多い事だろう。

そうはいっても、4月からは現実的にいろいろとイベントもあるらしいし、知らんじゃ済まんわな。 どないしましょ?
「これ、読んどいて」と渡された資料によれば、社本殿の建立は天保11年(1840年)。 御祭神は天照大神【あまてらすおおみかみ】とある。 おぉ、オレでも名前くらいは知ってる、メジャーな神さまじゃないの。
弟の須佐之男命【すさのおのみこと】の乱暴狼藉を悲しみ、天岩戸(あまのいわと)にお隠れになると、世の中は光brock-undertaker-727x485を失い闇の世界となり、作物も育たず、秩序も失われたとされる女神である。 太陽、光、慈愛、真実、秩序を象徴する最も尊い神さまだそうだ。
つまりWWEに例えるならば(例えられるものなのかよくわからないが)、現ユニバーサル王者のブロック・レスナーか、“デッドマン”ジ・アンダーテイカーくらい凄いのではないか。 古今亭志ん朝の「幾代餅」、五代目古今亭志ん生の「心中時雨傘」レヴェルの影響力を持つ存在と言えるのではないか。 それとももっと、人智で計り知れないほどの巨大な顕現であろうか。 ま、そうだわな。

もとい。

清水の(人によってはド田舎と呼ぶ)山の手に居を構えて20数年経つ。 当時の土地開発公社の説明会で、ここを購入する世帯は地域独自の文化を尊重するよう何度も釘を刺されていたから、当番が回って来るたび伊勢新明社のお札に1,000円を払ってきたし、境内のお掃除を年1回の頻度で続けて来た。
この当番の任期が3年で、いよいよ新年度から僕に番が回ってくる。
ついては去る2月25日、新しい当番の顔合わせがあるので自治会館に参加せよと呼ばれる。 定時には大体のメンバーが揃ったが、○組の〇〇さんと△組の△△さんがいないなどと、総代がしきりに携帯をかけている。 たかが顔合わせで14名全員参加を目論むなど大袈裟に過ぎる気もしたが、結局皆さん集まってから、20分遅れの開会となった。

開口一番、「本日中に三役を決めてもらいます」と宣言がある。 汚ったねェ~、だまし討ちみたいなことするじゃん。
でも最初から三役決めますなんて招集したらきっと誰も出てこなかったろうし、仕方ないと言えば仕方ない。 3年後の今頃は、きっと自分たちも同じ手を使って何も知らない14名を呼び出すことだろう。
ちなみに三役とは、総代・副総代・会計をさす。 会計は分かるが、他の二役がピンとこない。

それからしばし、沈黙の時間が続く。 下を向く人達が大半を占める中、オレ歳だから関係ねぇやくらいの爺様が、「アイツは地区の役員いつも逃げてやがんだ」などと、僕に小声でチクってくる。 はぁはぁと笑顔で相づち打ちつつも、こういう輩に限って実は何にもやってないんだよななどと、腹の中で苦虫をかみつぶす。 実際、決まらない時間が長く続いた後、「アンタ今まで何にもやってないんだからやれよ」と名指しされ、「お、オラもうすぐ80だし、あちこち病気だし(ウソこけ)、女房が反対するし・・・」などと言ったきり、下を向いて沈黙してしまう。 他にもエゴイズム剥き出しの人間模様が展開されていくが、その中にあって僕も例外ではない。 何が何でも逃げ切らねば。 その気概でいっぱいであった。

地元の伊勢新明社は、いわば末端の支部みたいなもので、本社に当たるのが三重県の伊勢神宮である。 毎年バスツアーがあって、“本社”詣でする総代も少なからずいるんだとか。 経費でるんですか? 自腹です。 それじゃますます成り手いないわな、3年の内1回は夫婦でご招待なんて特典付けたら、手を挙げる人もいるんじゃない? アンタ、総代になって企画してよ。 やっべ~、やはり沈黙が金なり。

こうなると我慢比べだ。 音を上げた者が負けである。
しばらくすると、ボクみたいなもんでよかったら会計だったらやりますけどと、50代らしき男性が手を挙げる。 ひとり決まり。 最悪の総代就任だけは、避ける作戦に出たか。 でも、会計ってある意味いちばんかったるいしなぁ。
「ワシ、4月から自治会長やらなイカンのよ」さすがにこういう人は除外。 「ワシも今年、報徳会と老人会の二役があるもんでなぁ。 それさえなかったら請けてもエエんじゃが」 人のよさそうな御仁が漏らす一言に、○○さん、そこを何とか頼むわ。 すかさずつけこまれる。 さんざん逡巡をなさった挙句、「さすがに総代は無理じゃが・・・ 副だったら、そいじゃワシ、やるわ」 見ごと陥落。

いよいよ残すは総代のみ。 このとき開会から、すでに2時間が経過している。
「ワシは住まいはこっちじゃが、商売やっとって実際にお付き合いしてるのは街の商店会の方じゃ。 こっちには寝に帰ってくるくらいのもんで、あんまし愛着もわかんのじゃ」「こういう役割は仕事をリタイアした人が、地元への恩返しでやるべきでしょう。 現役の我々が仕事休んで会合に出るなんて、現実的じゃないですよ(そうだそうだ、年寄りがやれ~ぃ)」

で、気づくとなぁんとなく、僕が仕切る形になっていて・・・ 「じゃあ、自ら役a51ed51aa39507ad2dbc9d5225afdeea_400x400を請けられたお二人に、総代選出を一任するという事でどうでしょう?」と提案。 一部、それでも渋る人がいたものの、言ったときにはこりゃ指名されるのはオレだなと、覚悟を決めた。 負けた。 つうか、無神論で、墓に恰好だけ手を合わせても祈念したことなど一度もないオレみたいなのが、一度の人生こういう役回りも時に面白いかと、気分を変えた。

案の定、別室で数分話し合いがもたれ、戻ってきた二役が指名したのは僕だった。 この流れだったら、そうなるわな。 わかりました、謹んでお受けいたします。

というわけで、4月から僕は、神に仕える身となる。 相手は八百万の神の最高峰、天照大神である。 会社の名刺にも、天照大神付きの肩書など、入れた方がいいだろうか。 そして羽ばたく。

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私だけの十字架 その2

2月28日、FMで放送された「メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル」を聴く。

94歳の誕生日を目前に控えたユダヤの老人が日本にやってくるというそれだけで、すでに驚異的な出来事と言えるだろう。
「ひび割れた骨董品」と評された不世出の大ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが初来日(1983年)したのは、それでも80歳の時だった。
ちなみにプレスラーのベルリン・フィルのソロイストデビューは、御大90歳の時という。 大器晩成にも程がある。

この夜、プレスラーが奏でたピアノ小品の数々はまさしく老いの響きというほかなく、だが表現することに強い意志を持ち続けた者が老いるとはこういう事か、老いとはネガティブな時間の流れでは決してなく、ある到達に至る過程に過ぎないことを体現したような、それは音楽だった。

ぼくはこの日のリサイタルに行けなかったことを一生後悔するだろうし、同時に、録音を通した限界ある条件の中にあっても、至高の響きに触れられたことをこの上なく幸運に思う。

1曲目。 ヘンデルの「シャコンヌ」が始まった瞬間、10年物の昆布のみで摂った、海の香りも旨みも抜けきった夾雑物のまるで無い、澄んだ出汁のような響きに満たされる。 それは脱力し、浮遊し、愉楽への本能を刺激せずにはおかない。 生きてきたからこそここで巡り会えた、奏者と聴衆の、幸せな邂逅。

2曲目はモーツァルトの「幻想曲 ハ短調 K.475」。 昔からグレン・グールドの乾いた響きが好きで、モーツァルト晩年様式の前触れのようなピアノを、何度も聴いてきた。 一人の音楽家に惚れ込むと、良くも悪くも他の演奏はその規範から外れるため、誰を聴いても受けつけずに来たのだが、プレスラー翁の手にかかると、何の抵抗もなく心の中深く音がしみてくる。 途切れなく演奏される「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457」でも、その感覚はまったく変わらない。 モーツァルトの音楽は古典派の様式にあって、端正な響きのようでありながら実はベートーヴェン以上に荒れ狂う葛藤をはらんでいる。 プレスラーは、いともたやすく相矛盾する二つの世界を止揚してしまう。 引き裂かれた世界で何かが終わり、虚無とも呼べない静かな調和の中に収束していく。

ドビュッシー「前奏曲集 第1巻」から5曲、そして「夢」。 自家薬籠中の作曲家なのだろう。 音楽はますます淀みなく、意識の裡に沈潜していく。 もしも2017年10月16日、サントリーホールで「亜麻色の髪の乙女」を聴けていたなら、神と突然に対峙し祈る思いも消失してしまったかのような、忘我の境地を味わえたかもしれない。 だが極めつけのドビュッシーは、後述するアンコールに奏された1曲であり、そのたった1曲のため、ここに書き留めておきたくなった。

ショパンからはマズルカ2曲と「バラード第3番」。 素晴らしい演奏ながら、それまでの作曲家と異なる印象を覚えるのは、ショパンにはどうしても一定の暗さと技巧が不可欠と感じるからだ。 満たされぬ渇きから生まれる焦燥感のようなものが後退し、演奏に今一つ必然を感じない。 単純に好みの問題で、プレスラーその人を聴くことに何の支障もないが。

最後はドビュッシー「月の光」。 これは、なんという音楽だろう。 月は照らさず、僕たちの“今”“過去”“未来”に等しく、光のままに滴り落ちてくる。
アルベール・カミュは「不条理」の感情を、人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく、「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」と定義した。 そして「反抗(不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度)」こそが生を価値あるものにすると称揚している。
プレスラーはこれを実践し続け、晩年に於いて、ついにその望ましい極点に達したのだと思う。 ここに歴史性は否定され、過去も未来も等価となり、故に革命もまた否定される。 “いまここにある”、その危うくも愛おしく、肯定するしかしかない“生”の賛歌こそが、この音楽の正体である。

夢であり、うつつでもある「月の光」のしずく。 僕たちは生きるに値するから生きているのではなく、存在しなかった過去も存在していない未来も、生きている“今”に等しい価値となり、静かな月の光に満たされている。 つまり、存在も非在も等価であるなら、もはや死ぬ根拠がなくなるのだ。
カミュは、革命や党派性の限界を示すことで同時代においては異端の存在に終わった。 「月の光」は音楽自体に於いて、その復興を宣言しているかのようだ。

あれ、オレまた何書いてんだろう。 なんで唐突に、カミュなんか俎上に上げるんだろう。
前回の続きで、現代のエア・チェックの具体的なやり方を開示しようとしていたのに。
それで、なんですな。 AIMPという、これはメイドイン・ロシアの音楽再生ソフトを使った「メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル」の画面を写真で掲載しておきますね。 これ、すんごいマニアックな編集が必要なんですが、今から触れだすと午前様になってしまうので、またの機会といたしまDSCN0284す。

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私だけの十字架 その1

娘は仕事から帰宅するとすかさずスマホにイヤホンを装着し、音楽を聴いたりユーチューバーの動画など見たりしている。 22歳にもなってそんなヒマがあるなら、付合っているオトコだっているのだし、孫の一人や二人生んでもバチは当たらないと思うのだが、深入りするとかなり本人のプライバシーに抵触するため、ここでは控える。

気になるのは奴のイヤホンで、後述する編集用としてなら僕も使ってはいるが、観賞用にこれを用いるなど、言語道断の行為である(と、あくまで個人の見解として申し上げる)。

なにしろイヤホンは長く使うほど、耳くそが増殖していく不快なイメージがある。 通気孔をふさがれ逃げ場を失った汗が、ネチネチと粘度を上げ、スライム状に粘膜の奥深く付着していく様など、想像するだにおぞましい。 事実はきっと違うのだろうが。

致命的に音が悪い。 どう工夫したって、良くなるわけがない。
イヤホンの原理はスピーカーと一緒で、音を電気に変えて、その電気を磁石の近くのコイルに流すと、元の音と同じように振動するという特性に基づいたものである。
音とは、物が動いたときに発生する空気振動のこと。 その運動は周りの空気に変化を生じさせ、四方八方へと伝えられる。

スピーカーの場合、音が空気中を伝わっていく際、距離が遠くなるとエネルギーが消費され小さくなって行くのに対し、イヤホンはドライバーユニットが耳と密着しているため、小さな振動までしっかり伝わる特性を持っている。 だからスピーカーでは聞き取りにくいピアニッシモを確認したい時など、モニターとして使用するのに適している。 反面、構造上の理由から振動板があまりに小さくチンケであるため、音質面で圧倒的に劣る。 一定の容積が無いと、“音”であっても“音楽”にはなりえないのが道理だ。

a-420中学生になって間もなく、初めてのステレオ装置を親に買ってもらった。 父に連れられ神保町のオーディオ・イベント会場で、レコード・プレイヤー、アンプ、チューナー、スピーカーと、カセット・デッキまでを揃えた。 カセットは後でもいいんじゃないかと渋られたが、僕の本命はカセット・テープに音楽をコピーする事だったから、ごり押しで手に入れた。 どうやら父にも予算があったようで(そりゃそうだ)、必然的に全体のグレードは下がり、音質はかなり犠牲になったはずだ。 それでも比較検討するものがない当時の僕にとって、人生初のオーディオ・セットは、まさに宝ものだった。

0883929304653_p0_v4_s550x406モノが届いたその日から、名もなき格安ブランドの60分テープ3本セット(それだって当時は1,000円くらいした)を近所の長崎屋で仕入れて、レコードからダビングしたりFM放送からエアチェックしたりを繰り返した。

渋谷陽一「ヤング・ジョッキー」で録ったジューダス・プリースト「切り裂きジャック(Judas Priest – The Ripper)」やチーチ&チョン「ミスター・ロックンロール(Cheech & Chong – Earache My Eye)」なんて聴いていると、音楽の最先端に自分がいるようで気分が良い。 ちなみに双方、YouTubeで今も視聴できる。 イケないハッパを吸う描写に始まる後者の壊れっぷりなど、今もってとてもカッコいいと思う。

それから40年が経過して、身体の方は中年から老境の域に差し掛かってはいるものの、心は少年っていうか、まるで進歩なく同じことを繰り返している。 進歩がないと言えば立つ瀬がないが、進歩の必要を感じないとでもほざいてみれば、チと粋がり過ぎか。

紆余曲折はあるにしろ、今でもFMから音楽を録って編集し、観賞することを日課とする毎日。 昔も今も、そこに本質的な違いはない。 チューナーがパソコンに変わり、かつてのカセットがハードディスクに交替し、やたら編集が便利になったことと記録容量が比較にならないほど大きくなっているのをもってして、時代の隔たりというだけだ。

高校生になると、何しろカセットというのは片面に最長で60分しか入らず、C-120というこのタイプはテープが薄く切れやすいデメリットもあり、1時間30分のマーラーやブルックナーの大曲を切れ目なく保存するため、オープンリール・デッキの購入を決意する。 SONY TC-7960という製品で、1970年の半ばで、238,000円もした。

とても高校生がまともに買えるブツではない(アルバイトはかたく禁じられていたし)。
私学だったのを悪用し、何かと寄付金が入り様だとかこじつけて、あるいは定期代を水増ししてちょろまかすなど、どこぞの市会議員の先駆けのようなせこい行為に手を染め、ようやく購入にこぎつけた。

tc-7960この製品はロート・バイラテラルヘッド方式といって、テープの末端に指定の銀テープを貼っておくと、本来巻き終わるところでこれを検知し、録音ヘッドと再生ヘッドを180度回転させ、テープも逆回りして長時間録音を可能にしてくれるオートリバース方式のスグレモノである(わかるかなぁ、わかんねぇだろうな)。 ガッチャン!とメカニカルな音を立て、リールが逆回りを始める瞬間が快感である。 各社が工夫を凝らし、オリジナルなものを追求していた時代だった。

日本の技術力が絶頂期にあった頃にあっても、これは傑作の一つと思う。 音もめちゃくちゃ良かった。 オープンリールに入れた音というのは、元のソースよりあきらかに迫力が増す。 19cm/sという、カセットの4倍のスピードがもたらす効果だろう。

本気でオーディオに打ち込むなら、今もってオープンリール・デッキによる録音再生、しかも2トラ38(2トラック38cm/s)に勝るものはない。 特性から言ってSACDやハイレゾの方がはるかに良いという輩もあるが、では何故、明らかに特性に劣る中古のフェラーリに憑りつかれる人間が、今も後を絶たないのか。 彼らは決してブランド志向から人生を賭けるのでなく、フェラーリという“本物”に出会ってしまったため、日常とのあまりの落差に、生きる意味を問い直さなくてはならなくなってしまった“幸福”な少数者かもしれない。 それは数値に置き換えたくらいで優劣を決することのできる、ヤワな世界ではない。

低域から高域の周波数まで数字的に網羅し、普通では聞こえない音が鳴っていることと、生々しいということとは、決定的に違う。 奏者がそこにいて、空気の振動がもろに伝わってくるような生々しさとは、逆説的だが、非現実な空間となる。 柄谷行人いうところの、狂人の見る夢のようなものだ。 夢でありながらその渦中にある当事者にとってどこまでも生々しく、一方、夢であるがゆえに一切の選択の余地なく迫ってくる、その恐怖と切実感。

しかしフェラーリ同様、オープンリール・デッキは場所も取れば手間もかかり、つぎ込むゼニも半端ない。 それを支える情熱は、今の僕にはない。 むしろ限られた条件であっても、様々な音楽に触れていられる毎日の方に喜びを感じる。 これって、プチブル?

前にも書い34055415-1HozqzslBqroxwxa-s-たが、Radikoolというフリーソフトがあって、地元のFM局や全国のコミュニティFMなどが留守録できる。 番組まるごと録った後、mp3DirectCut(傑作!)というこれもフリーソフトを使って、必要な個所だけ編集すれば、オリジナルのライブラリーが日ごと増えていく。 これが楽しい。 なにより、金がかからない。 こんな趣味は滅多にないぞ!

長くなったので次回に続く。

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